横井 庄 一 小野田 寛郎。 小野田寛郎「私が見た従軍慰安婦の正体」

小野田寛郎の妻や子供は現在どうしている!3億円って何?

横井 庄 一 小野田 寛郎

『ONE PIECE』(集英社)89巻の作者コメントで「みんなでごはん食べる時 最後に一つ大皿にぽつんと残ってるからあげとかあるよね。 あいつに名前をつける事にしました。 横井軍曹と。 『横井軍曹残ってるよ!誰か戦争を終わらせて!』的な。 分からないちびっ子は調べてね」と書いたことで、「不謹慎だ!」と叩かれたのです。 思わぬかたちで世間の関心を再び集めた横井さんが、28年にも及ぶグアムでの潜伏生活を経て母国の土を踏んだのは今から46年前、1972年のこと。 帰国して放った第一声「恥ずかしながら帰って参りました」は、当時の流行語にもなりました。 横井さんが、歩兵第38連隊の陸軍伍長としてグアムへ渡ったのは1944年。 同年7月25日、上陸した米軍に追い詰められ、日本兵のほとんどが戦死か自決によって死亡。 残った日本兵も島を制圧した米軍に徹底抗戦を試みるも、やはりことごとく玉砕。 横井さんは生き残った仲間と共に掘っ建て小屋を転々とするのですが、米軍の襲撃が繰り返され、やがて地下に潜るしかないと考え、穴を掘って潜伏生活をするようになります。 そして時を経て1972年1月24日、食糧獲得のために罠を仕掛けようとしていたところを、現地の村人に発見・確保され、日本へ帰還するに至ったのです。 帰国当時、すっかり疲れ果ててくたびれた様子だった横井さんとは違い、長きに渡って身を潜めていた人間とは思えないほど鋭い眼光を放ち、全身に粛然とした雰囲気をまといながら一点を見据えて敬礼する小野田さんに、まるで旧大日本帝国軍人が30年前からタイムスリップしたような錯覚を受けて、衝撃を感じたという人も多いのではないでしょうか。 陸軍中野学校二俣分校でゲリラ戦術・破壊工作を短期ながら徹底的に叩き込まれた小野田さんは、ルバング島にて師団長横山静雄陸軍中将から「玉砕はまかりならぬ、最後の1人になっても戦え」と指令を受けて任務を遂行。 1945年10月、米軍の勧告で小野田さんのグループ以外の日本兵は投降するも、小野田グループの3人のみが残り、以降、孤独な戦いを続けることになります。 1960年ごろには、残留日本兵発見の報告を受けた日本政府による呼びかけが実施されるも、「終戦を欺瞞」と断言し、一切応じることはなかったといいます。 しかし、2人いた仲間を失い、孤独感を深めていた時に冒険家・鈴木紀夫の説得、さらには上官からの任務解除・帰国命令を受けて帰還することになったのです。 帰還後、対照的な人生を歩む2人 帰還後の2人の人生は対照的です。 まず横井さんですが、28年前の日本しか知らない彼が、果たして高度経済成長で目覚ましい発展を遂げ、様相も風習もすっかり変わった今の母国に馴染めるのか心配されたものの、すんなり順応します。 帰国した年にはお見合いをしてその日のうちにプロポーズし、結婚しています。 その後は、グアムでの経験を生かして耐乏生活評論家及び生活評論家として講演活動などに精を出し、1997年に82歳で世を去りました。

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横井庄一

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ルバング島から帰国した小野田さん 小野田寛郎さんは元陸軍少尉で、スパイや諜報員などを養成する陸軍中野学校を卒業後にフィリピンへ渡り、終戦後も与えられた任務を遂行するべく、ルバング島の密林にこもって戦闘を続けていたそうです。 1974年に任務解除の命令を受け、日本に帰国した際は大きな話題となり、その後はブラジルへ移住して牧場を営み、近年は小野田自然塾を主宰し、野外活動を通じたボランティア育成に尽力されていたとのこと。 米紙のニューヨークタイムズやワシントンポストでも、小野田寛郎さんを称賛する記事が掲載されました。 海外でも有名だったんだ・・・ いわしはその当時のことはよくわかりませんが、帰国の際は熱烈な歓迎を受け、著書の「わがルバング島の30年戦争」は20万部以上も売れたそうです。 いやぁ、すごい人がいたもんだ。 30年も島に潜伏してサバイバル生活を営むというのは、想像もつきません。 でも、30年経ってから帰国なんて浦島太郎みたいですね。 ちなみに、同じ浦島太郎組の横井庄一さんも、グアムでのサバイバル経験を生かして、帰国後は耐乏生活評論家として活躍されたそうです。 帰国時の第一声「恥ずかしながら帰って参りました」はその年の流行語になりました。 小野田寛郎 1年前のロングインタビュー さて、小野田寛郎さん死去の際にはいろいろなニュースが流れましたが、その中でこんなインタビュー記事を見つけました。 昨年日刊スポーツに連載されたロングインタビュー記事です。 (面白い記事でしたが・・・現在は削除されたようです) どれも今の日本人の口からは絶対に出てこないような興味深い話ばかりです。 危険に対する備えは今でも染み付いています。 寝ている時に起こされても、すっと上半身を起こしたりしない。 まず、うつぶせになり、起こした人間を確認してからゆっくりと起き上がる。 すぐに起き上がったら標的になりますから。 これは、体が覚えてしまっている。 「ジャングルの中で、実は一番怖いのが雨なんです。 たとえ熱帯でも、寝ている間、雨に打たれ続けたら死にますから。 洞穴入ったり、掘っ立て小屋を造ったり。 考えてみれば、昔から人間が一番必要としていたのは雨よけなんですね。 今でも雨が降ると、あの時はあんなひどい思いをした、というのがよみがえってくる。 「生ものは食べません。 刺し身やすしはどんなにうまいといわれても食べません。 生水も飲みません。 水道水でも生臭さを感じてしまうんです。 煮沸したものは味が違いますから。 肉もレアはだめです。 (ルバング島では)牛を捕まえると干し肉や薫製にしました。 生では2日しかもちませんから」 「人間は本能的に自分の体に直接入るものには気を付けているんですね。 (ルバング島ジャングルでの極限生活で)味覚が敏感になったのも、そういうことなんでしょう。 さすが、30年もルバング島のジャングルに潜み、サバイバル生活を続けていただけのことはあります。 小野田さんならどんなことがあっても生きていけるんだろうなぁ。 他にも、小野田さんが帰国後わずか半年でブラジルへ渡り、日系人同士が「勝ち組・負け組」に別れて対立しあう中を泳いできたという話もなかなか面白い。 日系ブラジル移民社会では、終戦の報が日本語ではなくポルトガル語に訳されたため、あいまいな形で伝わったそうです。 このため、敗戦はデマであり日本は勝っていると信じる人が多かったとのこと。 こちらは勝ち組と呼ばれ、一方で日本の敗戦をきちんと認識し、受け入れた人もいたそうです。 この人たちは負け組と呼ばれました。 遠いブラジルでの出来事とはいえ、終戦後も敗戦はデマだと言っていた人がいたなんて、今の時代では到底信じられないですよね。 小野田寛郎「わがルパング島の三十年戦争」のゴーストライター さて、小野田寛郎さんに関しては称賛ばかりが目立ちますが、twitterでこんな記事があることを知りました。 フィリピン民間人惨殺になんら悔恨の念もない小野田氏と彼に群がった人々に震撼する。 — SIVA sivaprod 小野田寛郎さんのゴーストライターだった作家の津田信さんが、「幻想の英雄」という本の中で小野田寛郎さんとのやりとりを公開されています。 津田信さんは小野田さんと3ヶ月間一緒に生活して、「戦った、生きた」という手記を雑誌に連載したそうですが、これは小野田さん自身が書いたものではなく、津田信さんの代筆だったということです。 その後、「わがルパング島の三十年戦争」に改題して出版されたのですが、そのときトラブルに見舞われます。 津田信さんのご子息、山田順さんが「幻想の英雄」全文を公開されています 2014年8月に停止。 さすがに全部読むのは大変なので、興味のあるところを流し読みしたのですが、帰国時の熱狂ぶりに困惑したり、小野田手記にまつわる思惑に翻弄されたり、ブラジルへ移住したり・・・まあ、いろいろあったんですねぇ。 「幻想の英雄 小野田少佐との三ヵ月」はKindle版で再販されています。 小野田さんがルバング島で仲間と住民を襲って食料を奪いながら生活し、ジャングルに潜んでいた30年の間に、30人のフィリピン人を殺害し、100人に負傷を負わせていたということも初めて知りました。 小野田さんにとって、ルバング島はずっと戦場だったのですね。 当時の事情はわかりませんが、戦後も帰国せず、現地に留まった日本兵はたくさんいます。 どうして小野田さんが「発見」され、「最後の日本兵」として大騒ぎになったのでしょうかねぇ。 残留日本兵とはまた違うのかな。 結局、小野田さんは日本に帰国した後も、人々の思惑と熱狂の中で、わけもわからず翻弄されたように見えます。 小野田さん帰国 42年後の新事実 2016年7月に、小野田さんの帰国に関する日本政府の極秘文書が発見されたとのニュースがありました。 その文書には、小野田さんの帰国を巡り、日本とフィリピン間で極秘交渉が行われていたことが記載されていたとのこと。 日本政府は1956年に結ばれたフィリピンとの協定で、戦後賠償は解決済みとの立場でしたが、戦争終結後も残留日本兵が現地住民に被害を与えていたことは事実であり、反日世論の高まりを恐れて3億円の見舞金を支払ったそうです。 小野田さんの帰国問題は、日本とフィリピン間の重要な政治・外交案件だったのですね。 戦争経験者の話を聞こう ところで、小野田さんは「幻想の英雄」の中でこんなことを語っています。 いまさらぼくが、こんなことを声を大きくして言ってみたところでどうなるか知らないけど、聞かれりゃ言いますよ。 あの戦争で三〇〇万の生命が失われたんだ。 オレたちを連中はバクチに売ったんだ。 戦争に負けたことは仕方がないとしても「一億玉砕」を真にうけて戦場へ行ったらこのざまだ。 歓呼の声でだまして若い生命を殺したんだ。 人口が減り、失業がなくなれば政治家どもはまた出世する。 うるさい奴らがいなくなれば安閑として暮らせる。 というんで戦争をやったんだとすれば、そりゃバクチだ。 負けたら負けたでしょうがねえが、バクチで負けたんだから、腹を切れ。 いまからでも遅くない。 口惜しかったら腹を切ってみろ。 (後略) 実際に戦場で戦った人が言うのですから、言葉の重みが違います。 いわしは天下国家やイデオロギーを語る前に、戦争経験者からもっとこういう話を聞かなければいけないと思うのです。 小野田さんが亡くなられた時は91歳、他の元軍人さんや戦争経験者の方も同じような年齢です。 小野田さんのような戦争経験者から話を聞ける時間はあとわずかしかありません。 「あの戦争で三〇〇万の生命が失われたんだ。 オレたちを連中はバクチに売ったんだ。 戦争に負けたことは仕方がないとしても「一億玉砕」を真にうけて戦場へ行ったらこのざまだ。 歓呼の声でだまして若い生命を殺したんだ。 」 「負けたら負けたでしょうがねえが、バクチで負けたんだから、腹を切れ。 いまからでも遅くない。 口惜しかったら腹を切ってみろ。 」 これは、日本軍が唱えるキレイゴトと、戦地の現状とのあまりの乖離に苦しんだ小野田さんが、心の底から叫んだ言葉だと思います。 いざ戦いが始まれば、天下国家論やイデオロギー、そして正論や美学は通用しません。 勝敗を左右するのは身も蓋もない現実だけです。 いわしにとって最近よく見かける国家論や対外関係論は、右だろうが左だろうが、どことなく嘘臭さを感じてしまいます。 そりゃそうでしょう、国家論や対外関係論の行く末を知らない人間がどんなことを語っても、リアリティに欠ける話になってしまいますから。 天下国家やイデオロギーを語るということがどういうことなのか、身をもって知る人間から話を聞くことは大切だと思います。 でも、平和が長く続いた今の日本では難しいのかもしれませんね。 「生き抜く」最後の日本兵・小野田寛郎 小野田寛郎さんのロングインタビューです。 元はNHKの番組なので消されるかもしれませんが、一応貼っておきますね。 それにしても、小野田さんがインタビューで見せる笑顔はとてもステキですね。 帰国直後の硬直した顔とはえらい違いです。 小野田さんの人生は波瀾万丈で大変だったと思いますが、この動画ではとても穏やかな表情をされてます。 「生き抜く」最後の日本兵・小野田寛郎.

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戦争に名を借りて人殺しをしていた小野田 寛郎ごときのため、政府はなぜ、3億円を払ったのか 赤かぶ

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『ONE PIECE』(集英社)89巻の作者コメントで「みんなでごはん食べる時 最後に一つ大皿にぽつんと残ってるからあげとかあるよね。 あいつに名前をつける事にしました。 横井軍曹と。 『横井軍曹残ってるよ!誰か戦争を終わらせて!』的な。 分からないちびっ子は調べてね」と書いたことで、「不謹慎だ!」と叩かれたのです。 思わぬかたちで世間の関心を再び集めた横井さんが、28年にも及ぶグアムでの潜伏生活を経て母国の土を踏んだのは今から46年前、1972年のこと。 帰国して放った第一声「恥ずかしながら帰って参りました」は、当時の流行語にもなりました。 横井さんが、歩兵第38連隊の陸軍伍長としてグアムへ渡ったのは1944年。 同年7月25日、上陸した米軍に追い詰められ、日本兵のほとんどが戦死か自決によって死亡。 残った日本兵も島を制圧した米軍に徹底抗戦を試みるも、やはりことごとく玉砕。 横井さんは生き残った仲間と共に掘っ建て小屋を転々とするのですが、米軍の襲撃が繰り返され、やがて地下に潜るしかないと考え、穴を掘って潜伏生活をするようになります。 そして時を経て1972年1月24日、食糧獲得のために罠を仕掛けようとしていたところを、現地の村人に発見・確保され、日本へ帰還するに至ったのです。 帰国当時、すっかり疲れ果ててくたびれた様子だった横井さんとは違い、長きに渡って身を潜めていた人間とは思えないほど鋭い眼光を放ち、全身に粛然とした雰囲気をまといながら一点を見据えて敬礼する小野田さんに、まるで旧大日本帝国軍人が30年前からタイムスリップしたような錯覚を受けて、衝撃を感じたという人も多いのではないでしょうか。 陸軍中野学校二俣分校でゲリラ戦術・破壊工作を短期ながら徹底的に叩き込まれた小野田さんは、ルバング島にて師団長横山静雄陸軍中将から「玉砕はまかりならぬ、最後の1人になっても戦え」と指令を受けて任務を遂行。 1945年10月、米軍の勧告で小野田さんのグループ以外の日本兵は投降するも、小野田グループの3人のみが残り、以降、孤独な戦いを続けることになります。 1960年ごろには、残留日本兵発見の報告を受けた日本政府による呼びかけが実施されるも、「終戦を欺瞞」と断言し、一切応じることはなかったといいます。 しかし、2人いた仲間を失い、孤独感を深めていた時に冒険家・鈴木紀夫の説得、さらには上官からの任務解除・帰国命令を受けて帰還することになったのです。 帰還後、対照的な人生を歩む2人 帰還後の2人の人生は対照的です。 まず横井さんですが、28年前の日本しか知らない彼が、果たして高度経済成長で目覚ましい発展を遂げ、様相も風習もすっかり変わった今の母国に馴染めるのか心配されたものの、すんなり順応します。 帰国した年にはお見合いをしてその日のうちにプロポーズし、結婚しています。 その後は、グアムでの経験を生かして耐乏生活評論家及び生活評論家として講演活動などに精を出し、1997年に82歳で世を去りました。

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