ブラタモリ 浜名 湖。 【ブラタモリ・浜名湖編】全ルート・うなぎ店を写真で紹介!~再放送と歴史・地質地形~ #152

『ブラタモリ「浜松〜なぜ浜松が楽器の町になった♪〜」』 放送決定

ブラタモリ 浜名 湖

今回は2週連続の浜松市のぶら歩きの第2弾です。 今回のブラ歩きでは 新幹線浜松駅改札内コンコースの町ピアノ~東照宮~YAMAHAピアノ工場~航空自衛隊浜松基地「中部航空音楽隊」のルートをたどり・・・ 浜松市が楽器の町になった理由を5つのステップで探ります。 正にジャズプレイヤーで トランペット奏者でもあるタモリさん 絶対音感で東京藝術大学大学院音楽研究科修士課程音楽学専攻修了の経歴を持つリンダちゃんこと林田アナにぴったりのエピソードですね! 徳川家康がヘリに浜松の町を作った理由は天竜川の河岸段丘? ・ 2. 暴れ天竜の流域「島畑」で栽培された「綿花」 ・ 3. 織機をつくる細工大工が集まった ・ 4. 楽器作りの礎を築いた職人はヤマハの創始者で初の国産ピアノを作った山葉寅楠 ・ 5. ピアノ作りに最適だった地理的条件は「からっ風」と南アルプス という内容で、更に 管楽器製造のきっかけは航空自衛隊だった!? という謎を探るためブルーインパルスが所属する 航空自衛隊浜松基地 「中部航空音楽隊」を訪れ 浜松市が楽器の町になった謎を解き明かします。 浜松市は徳川家康が浜松城を築いてから 綿織物を中心とした モノづくりの城下町として栄え 職人が集まり、明治時代に ヤマハの創始者・山葉寅楠 が輸入オルガンを修理した経験から ピアノの国産化に成功し 楽器メーカーの本社、工場があつまり やがて中心の「楽器のまち」として発展してきました。 楽器の製造販売のみならず 文化面での発展を目指して 「音楽のまちづくり」に取り組んでおり、 国際的なコンクールなど 音楽を通した国内外の交流事業、 文化施設の開設、 市民参加の文化事業等で 日本を代表する音楽文化都市へと変化しています。 今回は、浜松が楽器の町になった理由を浜松市の成り立ちから5つのステップで解き明かします。 スポンサードリンク 林アナが浜松駅でピアノ弾き逃げ 楽器の町になった理由を5つのステップを探る前に 東京藝術大学大学院音楽研究科修士課程音楽学専攻修了の経歴を持ち絶対音感のリンダちゃんこと、林田アナが新幹線浜松駅の東海道新幹線改札内コンコースの企業PR用ブースに展示されているピアノで腕前を披露しました。 「自撮り」用のスマートフォンスタンドも設置されておりSNSなどを通じたPRも目的です。 現在は河合楽器製作所のShigeru Kawai SK5が2020年6月まで展示されています。 STEP1. 徳川家康がヘリに浜松の町を作った理由は天竜川の河岸段丘のヘリ? 浜松市が「楽器の町」になる 5つのステップの1つ目として、浜松市の工業の発展が関係が先ず挙げられます。 先ずは浜松市の誕生から解説します。 浜松の工業が発展したのは 徳川家康が浜松城を開城し浜松の町を作った事に始まります。 タモリさんと、林田アナ御一行は 浜松市の中心部で、徳川家康をまつる「元城町東照宮」を訪れました。 厄除けの後は出世神社とも呼ばれる浜松東照宮、そして浜松城へ — こうたん まめぴょん mamepyon1 その周囲には、 河岸段丘を利用した石垣が築かれていました。 徳川家康は、甲斐を収める 武田信玄の軍勢の攻撃を食い止める為に、 天竜川の 河岸段丘のヘリであるこの地に浜松城を築城し、城下町として浜松の町が誕生したそうです。 浜松が城下町として街並みを整備する為 「大工」や「鍛治」など様々な職人が集められるようになりました。 その職人達は「十種衆」と呼ばれていました。 こうして木工や鉄工、 鋳造や漆塗りなど様々な技術が求められる オルガンやピアノ作りに役立つ技術の礎が浜松の町に築かれていました。 STEP4. 楽器作りの礎を築いた職人はヤマハの創始者で初の国産ピアノを作った山葉寅楠 時代は明治維新により明治時代に移りました。 明治4年、日本最初の学校制度が公布され教科の中には西洋音楽である唱歌が採用されました。 唱歌授業に必要なオルガンは 輸入に頼りでしたが高価な輸入品頼りの為、全国の小学校へ設置することは財政上困難でした。 そんな中、時計を始じめ医療機器など機械器具全般の修理などを請け負っていた山葉 寅楠(やまは とらくす)、そう後のヤマハ(YAMAHA)を創設する技術者が、細工大工を集めて浜松尋常小学校(現在の浜松市立元城小学校)にあった輸入から僅か2か月で故障してしまったアメリカ製オルガンの修理を手がけました。 ヤマハでの国産オルガン制作現場 画像出典:YAMAHA. com そして、1891年に現在のYAMAHAとなる山葉楽器製造所を創設しました。 また政府の「富国強兵」策によりピアノの国産化が求められていました。 そして、1900年(明治33年)1月 国産初のアップライトピアノ 「カメンモデル」が誕生しました。 後にピアノ製造会社は 山葉楽器製造所の創設に関わった 河合喜三郎が設立した 河合楽器製作所を含め 全国に250社に増えましたが 次第に淘汰され戦後に生き残ったのは浜松で、浜松は本格的にピアノの街となっていました。 昭和の高度成長期には ピアノも生産台数を伸ばし、 価格的にも庶民の手に届きやすくなり ヤマハと河合楽器はピアノの大量生産と販売力を持ちました。 さらに国際的な音楽コンクール 「ショパンピアノコンクール」や 「チャイコフスキー国際コンクール」 などでヤマハと河合楽器の グランドピアノが採用され、 世界のピアニスト達に認められ やがて世界中のコンクールで日本のピアノが採用される様になりました。 現在ではピアノの世界シェアは 1位がヤマハ、2位が河合楽器が占めるまでになっています。 STEP5. ピアノ作りに最適だった地理的条件は「からっ風」と南アルプス タモリさん、林田アナ御一行は、最新のピアノ工場を見学し美しいアーチを描くピアノの木の曲げ方を見学しました。 そこで、浜松がピアノ制作に関して地理的条件が適していた事もピアノ作りに最適だった事を知ります。 ピアノの原料である木材は、南アルプスから天竜川で運ばれてきました。 そして、山を越える乾いた空っ風により原料の木材が乾燥しやすいという地形的条件もピアノ作成に適していました。 これらの5つステップをたどって、浜松は「楽器の町」になったのでした。 管楽器製造のきっかけは航空自衛隊だった!? 最後にタモリさんと林田アナ御一行は航空自衛隊浜松基地を訪れます。 という謎を解き明かします。 嘗て日本陸軍の戦闘機が複葉機の時代にプロペラは木製でヤマハが製造しており、やがて金属にりましたが、その技術がトランペットなどの管楽器に活かされました。 ブラタモリ 153何故浜松が楽器の町になった? まとめ 浜松が楽器の町になったのは・・・ 徳川家康が浜松城を築城した際、 「十種衆」と呼ばれる各種の職人を城下に集めた。 天竜川の「島畑」で「綿花」を栽培した結果木綿産業が発達。 豊田佐吉が自動機織り機を制作するなど、工業の礎を築いた。 機械修理職人の山葉寅楠が故障した輸入オルガンを修理し、リバースエンジニアリングで国産初のオルガン、そして国産ピアノを製造。 山葉寅楠と河合喜三郎が山葉楽器製造所を創設し、後のYAMAHA、河合楽器製作所となり世界のピアノシェア1位と2位を独占するまでになった。 YAMAHA、河合楽器製作所のピアノは世界のピアノコンクールで品質を認められた。 また、ローランドの様な電子楽器メーカーが大阪から本社を工場がある浜松に移した。 ピアニカを開発した 東海楽器製造株式会社 鍵盤ハーモニカの鈴木楽器などの老舗楽器メーカーの存在も忘れられない。 浜松市も音楽関係の公共施設の開設や音楽イベントで音楽を全面に打ち出す。 などの歴史背景、地理的要因が挙げられます。

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タモリ、浜名湖が日本有数のウナギの産地になった理由を探る『ブラタモリ』

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2020年1月18日『~"ウナギといえば"なのはなぜ?~』 ついにが浜松にやって来ました。 では富士山、熱海、伊豆、下田に次いで5ヵ所目となります。 2週連続放送とはめでたい話です。 番組の始まりはホテル九重から。 では珍しい気がする快晴でした。 で食事風景はそんなに多くないと思いますが、テーマがテーマなのでを食べていました。 アナウンサーの林田さんが重箱の蓋を開けた瞬間、を食べた瞬間に「ゥワァ!」と声を上げられていてちょっと意外でした。 美味しいです。 番組の最後に「全ての始まりの地」として紹介された場所が現在の今切口でした。 明応7年 1498年 の大と大により今切の口が決壊してと海が繋がりました。 ちなみに、この時に地面を抉られたことで陸から切り離されたのが現在のです。 これに関して、さんが「明応で亡くなった人は大勢いて、その人達は気の毒だったけども、だから今のがある」と仰っていました。 数百年前の死者に思いを寄せる。 忘れがちだけど大切なことです。 「人間が死ぬ時は人間に忘れられた時だ」とでも言ってたんで間違いないです。 生きている人間は亡くなっている人間を殺してはいけません。 からこんな報道発表がありました。 要は映画やテレビ番組、CMなどのロケを誘致して観光客を呼び込みたいとのこと。 いわゆるをしてもらいたいわけです。 でも浜松という組織の 暗躍がありました。 ロケ候補地の紹介からロケ希望者と施設管理者や企業、行政などとの調整の支援、各種やロケ弁当、ホテル手配などの支援を行います。 ええ、支援であって代行ではないですがロケ希望者にとってはありがたいでしょう。 凄く応援してくれますから。 静岡では大掛かりなロケだけでなくYoutuberやの呼び込みも行っています。 彼らを呼んで美味しいもの飲み食いさせて、などでをPRしてもらう算段です。 そういう姿勢、大好きです。 効果は分かりませんが、各体が「是非ともウチに観光客を」と競争する姿は健全だと思います。 hitokemu.

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【ブラタモリ・浜名湖編】全ルート・うなぎ店を写真で紹介!~再放送と歴史・地質地形~ #152

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今回は2週連続の浜松市のぶら歩きの第2弾です。 今回のブラ歩きでは 新幹線浜松駅改札内コンコースの町ピアノ~東照宮~YAMAHAピアノ工場~航空自衛隊浜松基地「中部航空音楽隊」のルートをたどり・・・ 浜松市が楽器の町になった理由を5つのステップで探ります。 正にジャズプレイヤーで トランペット奏者でもあるタモリさん 絶対音感で東京藝術大学大学院音楽研究科修士課程音楽学専攻修了の経歴を持つリンダちゃんこと林田アナにぴったりのエピソードですね! 徳川家康がヘリに浜松の町を作った理由は天竜川の河岸段丘? ・ 2. 暴れ天竜の流域「島畑」で栽培された「綿花」 ・ 3. 織機をつくる細工大工が集まった ・ 4. 楽器作りの礎を築いた職人はヤマハの創始者で初の国産ピアノを作った山葉寅楠 ・ 5. ピアノ作りに最適だった地理的条件は「からっ風」と南アルプス という内容で、更に 管楽器製造のきっかけは航空自衛隊だった!? という謎を探るためブルーインパルスが所属する 航空自衛隊浜松基地 「中部航空音楽隊」を訪れ 浜松市が楽器の町になった謎を解き明かします。 浜松市は徳川家康が浜松城を築いてから 綿織物を中心とした モノづくりの城下町として栄え 職人が集まり、明治時代に ヤマハの創始者・山葉寅楠 が輸入オルガンを修理した経験から ピアノの国産化に成功し 楽器メーカーの本社、工場があつまり やがて中心の「楽器のまち」として発展してきました。 楽器の製造販売のみならず 文化面での発展を目指して 「音楽のまちづくり」に取り組んでおり、 国際的なコンクールなど 音楽を通した国内外の交流事業、 文化施設の開設、 市民参加の文化事業等で 日本を代表する音楽文化都市へと変化しています。 今回は、浜松が楽器の町になった理由を浜松市の成り立ちから5つのステップで解き明かします。 スポンサードリンク 林アナが浜松駅でピアノ弾き逃げ 楽器の町になった理由を5つのステップを探る前に 東京藝術大学大学院音楽研究科修士課程音楽学専攻修了の経歴を持ち絶対音感のリンダちゃんこと、林田アナが新幹線浜松駅の東海道新幹線改札内コンコースの企業PR用ブースに展示されているピアノで腕前を披露しました。 「自撮り」用のスマートフォンスタンドも設置されておりSNSなどを通じたPRも目的です。 現在は河合楽器製作所のShigeru Kawai SK5が2020年6月まで展示されています。 STEP1. 徳川家康がヘリに浜松の町を作った理由は天竜川の河岸段丘のヘリ? 浜松市が「楽器の町」になる 5つのステップの1つ目として、浜松市の工業の発展が関係が先ず挙げられます。 先ずは浜松市の誕生から解説します。 浜松の工業が発展したのは 徳川家康が浜松城を開城し浜松の町を作った事に始まります。 タモリさんと、林田アナ御一行は 浜松市の中心部で、徳川家康をまつる「元城町東照宮」を訪れました。 厄除けの後は出世神社とも呼ばれる浜松東照宮、そして浜松城へ — こうたん まめぴょん mamepyon1 その周囲には、 河岸段丘を利用した石垣が築かれていました。 徳川家康は、甲斐を収める 武田信玄の軍勢の攻撃を食い止める為に、 天竜川の 河岸段丘のヘリであるこの地に浜松城を築城し、城下町として浜松の町が誕生したそうです。 浜松が城下町として街並みを整備する為 「大工」や「鍛治」など様々な職人が集められるようになりました。 その職人達は「十種衆」と呼ばれていました。 こうして木工や鉄工、 鋳造や漆塗りなど様々な技術が求められる オルガンやピアノ作りに役立つ技術の礎が浜松の町に築かれていました。 STEP4. 楽器作りの礎を築いた職人はヤマハの創始者で初の国産ピアノを作った山葉寅楠 時代は明治維新により明治時代に移りました。 明治4年、日本最初の学校制度が公布され教科の中には西洋音楽である唱歌が採用されました。 唱歌授業に必要なオルガンは 輸入に頼りでしたが高価な輸入品頼りの為、全国の小学校へ設置することは財政上困難でした。 そんな中、時計を始じめ医療機器など機械器具全般の修理などを請け負っていた山葉 寅楠(やまは とらくす)、そう後のヤマハ(YAMAHA)を創設する技術者が、細工大工を集めて浜松尋常小学校(現在の浜松市立元城小学校)にあった輸入から僅か2か月で故障してしまったアメリカ製オルガンの修理を手がけました。 ヤマハでの国産オルガン制作現場 画像出典:YAMAHA. com そして、1891年に現在のYAMAHAとなる山葉楽器製造所を創設しました。 また政府の「富国強兵」策によりピアノの国産化が求められていました。 そして、1900年(明治33年)1月 国産初のアップライトピアノ 「カメンモデル」が誕生しました。 後にピアノ製造会社は 山葉楽器製造所の創設に関わった 河合喜三郎が設立した 河合楽器製作所を含め 全国に250社に増えましたが 次第に淘汰され戦後に生き残ったのは浜松で、浜松は本格的にピアノの街となっていました。 昭和の高度成長期には ピアノも生産台数を伸ばし、 価格的にも庶民の手に届きやすくなり ヤマハと河合楽器はピアノの大量生産と販売力を持ちました。 さらに国際的な音楽コンクール 「ショパンピアノコンクール」や 「チャイコフスキー国際コンクール」 などでヤマハと河合楽器の グランドピアノが採用され、 世界のピアニスト達に認められ やがて世界中のコンクールで日本のピアノが採用される様になりました。 現在ではピアノの世界シェアは 1位がヤマハ、2位が河合楽器が占めるまでになっています。 STEP5. ピアノ作りに最適だった地理的条件は「からっ風」と南アルプス タモリさん、林田アナ御一行は、最新のピアノ工場を見学し美しいアーチを描くピアノの木の曲げ方を見学しました。 そこで、浜松がピアノ制作に関して地理的条件が適していた事もピアノ作りに最適だった事を知ります。 ピアノの原料である木材は、南アルプスから天竜川で運ばれてきました。 そして、山を越える乾いた空っ風により原料の木材が乾燥しやすいという地形的条件もピアノ作成に適していました。 これらの5つステップをたどって、浜松は「楽器の町」になったのでした。 管楽器製造のきっかけは航空自衛隊だった!? 最後にタモリさんと林田アナ御一行は航空自衛隊浜松基地を訪れます。 という謎を解き明かします。 嘗て日本陸軍の戦闘機が複葉機の時代にプロペラは木製でヤマハが製造しており、やがて金属にりましたが、その技術がトランペットなどの管楽器に活かされました。 ブラタモリ 153何故浜松が楽器の町になった? まとめ 浜松が楽器の町になったのは・・・ 徳川家康が浜松城を築城した際、 「十種衆」と呼ばれる各種の職人を城下に集めた。 天竜川の「島畑」で「綿花」を栽培した結果木綿産業が発達。 豊田佐吉が自動機織り機を制作するなど、工業の礎を築いた。 機械修理職人の山葉寅楠が故障した輸入オルガンを修理し、リバースエンジニアリングで国産初のオルガン、そして国産ピアノを製造。 山葉寅楠と河合喜三郎が山葉楽器製造所を創設し、後のYAMAHA、河合楽器製作所となり世界のピアノシェア1位と2位を独占するまでになった。 YAMAHA、河合楽器製作所のピアノは世界のピアノコンクールで品質を認められた。 また、ローランドの様な電子楽器メーカーが大阪から本社を工場がある浜松に移した。 ピアニカを開発した 東海楽器製造株式会社 鍵盤ハーモニカの鈴木楽器などの老舗楽器メーカーの存在も忘れられない。 浜松市も音楽関係の公共施設の開設や音楽イベントで音楽を全面に打ち出す。 などの歴史背景、地理的要因が挙げられます。

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