記憶 の 中 で ずっと 二 人 は 生き て いける 歌詞。 少年少女の俳句歳時記 笹の葉 pulittu

お蔭様で10周年 孫の人生

記憶 の 中 で ずっと 二 人 は 生き て いける 歌詞

海ばかりでなく大地もいのちをはぐくむ。 木や草の実が落ちて、大地の体温に目覚め、種から根が生え芽が伸びる。 それは種に限ったことではなく、木の枝を折って大地に突き刺しておくだけで根が生え芽が伸びる。 切った切り口から水や栄養を吸収し、効率の良い根の組織が造られ、根になってゆくのである。 自然の力は神秘的で偉大である。 それを「八百万神見そなはす」と表現した。 それは、大きな発見であり、八百万神を確信する畏れおおい驚きでもある。 生きとし生けるものをあたたかくつつむベッドのような大地。 増えてほしくない雑草が生えて困っているときには、この単純な発見には至らない。 ところが、好きな馬酔木やクリスマスローズや秋名菊や螢袋やヒマラヤシャジンの こぼれ種やシュートが知らないうちに育っていて、ある日突然それに気づかされ感動する。 好きなものでないと感動しないし発見できない。 (なんと淋しいことか。 ) 好きであることによって、興味関心が及び、自然に気づきが行われ心が動く。 これが自然の謎を解く鍵になることは間違いない。 好きになるということは、 交通事故に遭うようなもので、出遭った人は幸か不幸か。 (その代償を払わねばならない。 ) 大地に根づいたさし木は、どんどん成長してみるみる親木と同じようになる。 どこでどうなるやも知れない未来は未知である。 しかし、さし木する価値はじゅうぶんにある。 いいなと思った枝はさし木する。 本で読んだ言葉や考えをさし木する。 すると、いつのまにかあたためられて知らないうちにいつかおおきく育っている。 自然に行われていることが、人間という宇宙の中でも行われる。 人間と自然は一体であり、同じ原理が働いていて、地球という大きないのちで繋がっている。 流動的に変化し動いており、今の時点では間違いとされていても、 未来においてはそれが正しくなるという可能性はじゅうぶんにあるということは歴史が証明している。 生存中はだれも見向きもしなかった説が、死後になって認められたりしている。 だったら、自分の信ずる道を歩んで行く生き方が潔い。 先日は8時間の練習に和気藹々と活力がみなぎり、まだこれからのびてゆくエネルギーを感じた。 みんな歌好きな連中が集まっているから、誰も音をあげずまだもの足りないという人もいたくらいである。 音楽馬鹿といっても言いすぎではないくらい、とり憑かれたようにのめりこみ音を楽しんでいる。 鳥でも歌でも俳句でも、良質の人たちに知らないうちに導かれ感化されてゆくのが自分でもわかる。 無理強いされるということもなく、自分の心地よい間をとりながら、次第に自分のカラーを創ってゆく。 あくまでも自分が主体であるから、自分の嗜好にそってどのようにでも芽を伸ばしてゆける。 この自由な感覚に遊べるのが良い。 それだけ包みこむ宇宙が広いということである。 こんなに自由気ままに行動していて違和感を感じさせないのは本当に懐が広い。 春もたけなわ、鳥たちが囀りいろんな音色やメロディーを奏でている。 鳥だけでなく、動植物たち万物の生きとし生けるものたちがこの世を謳歌して声を張りあげている。 ある鳥がひときわ絶叫して聞こえるというのは、人間の耳にそう聞こえるというだけで、 それぞれがこれが最高という声で絶叫しているように私には思える。 人間の耳は人間に聞き取りやすい音域しか聞こえない。 早い話がピアノを想定すれば良い。 しかし、人間の耳に聞こえない音があり、人間にとっては理解不能な旋律だってある。 人間の尺度でなにもかも切りとって見たり聞いたり触れていたりするけれど、理解が足りない。 及んでいない。 同じ人間同士でも、分かったつもりになっているだけで、実際はぜんぜん分かっていない。 分かったつもりになれるのは、愛というロマンティックな接着剤のおかげなのだ。 愛がなければ、広大な宇宙に投げだされ、ひとり孤独をかみしめる恐怖を味わうことになる。 つまり、私だってこうして文字を連ねて広大なネットの海に向かって精一杯絶叫しているのだ。 それが少しも空しさを感じないのは、 この絶叫の響きがどこかのだれかに確かに届いていることを知っているからだ。 それが毎日生きる糧になってエネルギーとなっている。 無から有が生じる創造のエネルギーは神だけの特権ではない。 神は死に、神の精霊は感じるものの中に生まれ、それは愛とよぶにふさわしい。 高級娼婦や貴族に扮する舞台の歌手が、あちらこちらに座る客を眺める視線に生々しさを感じたのである。 これは良いことでもある。 というのは、元タカラジェンヌの演出家が一番最初に指導したことは、 気高く歩きながら、客席のなかのこれぞという客の視線を捉えよ、というものであったからである。 視線が気になったとは、素晴らしいことではないか。 見ている客であるはずなのに見られているようで気恥ずかしさが感じられるとはなんと艶めかしいことか。 気品があったかどうかはわからないが、視線がちくちく刺さりそれだけ間近に感じどきどきはらはらだったのであろう。 プロと同じ舞台にあがる私たちは、度胸のあるセミプロなので客席の人たちの顔をしっかり見ている。 進む舞台の役割を演じつつ、その物語の中で、客席も舞台の一部として客を巻き込んでゆく。 オペラハウスのホール全体が、 歌手や演奏者や観客が一体感を感じ、感動に酔いしれる。 臨場感というのがあって、ひと目ぐるりと見回すことによってその場のなかに包みこんでしまう。 さて掲句。 観賞する視点と蝶の視点のふたつの角度からの読みが可能になる。 後者の方が面白い。 初蝶ということは、生まれたての蝶で、さなぎから殻を破り翅のすみずみにまでいのちをめぐらし、 初めて飛翔するときの蝶は、鳥とは違って親がそばにいて飛んで見せてくれるということもない。 すべてが自分ひとりの初体験になり、自分ひとりで決断して自分の力で翔ぶしかない。 このひとりだちは、神秘的であり奇蹟であり感動である。 すべて自分ひとりで宇宙を背負い宇宙にとびたつ。 なんの不思議もなく当たり前のように翔ぶことの神憑り。 その自然の偉大なエネルギーに触れる。 その蝶のまず最初の自己認識は、自分の身近にあって同じ呼吸やリズムを感じる影であったであろう。 その影の動きを見て、自らの飛翔を感じとり、優雅に舞う姿を認識して、影を友にして舞う。 だから、影は初めての肉親ともいうべきものとなり、自然にだいじになる。 そのうちひらひら飛んでいるうちに影に似ていてしかももっと美しい同類に出会うのである。 こうして種は保存される。 3月の20日から4月の5日くらいが日本の標準である。 終業式から始業式までの春休みが、学生ばかりか先生ものんびりできる時間となる。 もう今ごろは4月からの行き先が決まって、始まりの予感に胸震えている頃だろう。 進級や進学できてほっとする。 この期間に旅行をしたり、本を読んだり、さまざま開放感にひたる。 束縛を解かれた自由時間の過ごし方によって知らないうちにその人らしさが現れる。 千代子の子どもか、近所の子どもか、縄跳びをしている。 海外旅行とか家族旅行とか、友人同士の卒業旅行なども盛んになって華やかになってきた昨今、 その一方で、どこにも行かずにささやかな日々を過ごす子どもたちもいてのどかである。 子どもの世界というのは、どこにも旅行に行かなくたってこれで結構幸せで満たされているものなのだ。 テレビでは長期の休みになると、大げさに特集を組んだりするけれど、 そんなことをしなくたってじゅうぶん豊かな時間の過ごし方がある。 子どもの世界に忘れられない思い出としてどれだけ蓄積されてゆくのか、ということなのだ。 大人の価値観で決められるものではなく、無理のない子どもの時空間の広がりを促したい。 私の春休みは、花壇の手入れだった。 種を撒いたり、苗を買ってきて植えたりするのが楽しみだった。 父の車に乗せてもらって種屋さんに行って、母といっしょに花の種や苗を買う。 それから、本屋さんまで足を運ぶのも春休みの安らぎだった。 近くに本屋さんがなかったから、 月々配達される雑誌や本ではなく自分で選べる本屋さんまで自転車で行くのがわくわくする冒険だった。 教師の仕事をするようになって、再び春休みは児童・生徒と同じような気分を味わえる。 1年ごとに、あるいは不定期に転々と各学校を渡り歩くような身分になってからは春休みは複雑だ。 これだけ転戦していると、度胸もついてきて、なんとかなるさ、という気にもなってきた。 こういうはらはらどきどきも悪くない。 どんな出会いがあるのか、期待もするし不安にもなる。 その気持ちの緊張感が、びゅんびゅんと張りのある縄に現れており、意気揚々と縄を回し、 跳びはねている気分の高揚感がこれからの苦難も柔軟な適応力で乗り越えていけそうな勢いを感じさせる。 4月にはどんな運命が待ち受けているのだろうか。 心が浮き立つ。 春ですねえ。 寒さというのは、それだけでストレスになり、心まで閉ざしてしまうものなのである。 だんだんに心が雪のようにとけて水になると、からだじゅうに活力がみなぎってくる。 昔むかしのいのちをよびさましてくれる。 海に漂っていたいのちのみなもとの記憶がよみがえる。 冬ごもりしているあいだにあれこれ思いを巡らしていたことを行動に移しやすくなってくる。 思いから行動への道のりは、遠い。 けれども、ものの弾みがつきやすくなってくる。 がっちりとよろいかぶとに身をかためていたガードが、自然にほぐれ、無防備になってくる。 それが春なのであり、このときを逃してはなるまい。 人間の動物的勘が鈍くなってきているから注意しよう。 その前触れとして「前略」という言葉が象徴している。 春の予感に敏感になっている。 この先が問題なのである。 ここから文明の圧力がかかって思いを滞らせてしまうものである。 私なんかは、思慮分別が邪魔をして困っている。 猫になりたいと常々日々思っている。 苑子同様、「前略」と書いてそこから前に進まない。 にらめっこしてしまう。 そのうち、メランコリックとかロマンティックとかにうち沈んで没になってしまう。 春の宵というのは、そういう気分に調和して、それが日本文化の湿った基調を成している。 それに埋没するのを良しとするのか。 この時点において、苑子の限界はここにあったであろう。 その後、どうしたのであろう。 いつも興奮と喜びに満ちた自分を追い求めるためには、そこから一歩先に進まねばならないのだ。 自己防衛本能が働いて、ガラスの向こうの景色は魅力的なのはわかっているけれど、 ガラスを割ることができない。 そこである。 割ろうとするから、臆病になる。 もちろん、その感覚は正しくて、割るのではなく、ガラスは引けば良いのである。 こうした発想の転換によって、事態は展開してゆくのである。 そうやって、乗り越えて、新しい日々がはじまってゆく。 人生を愉しくするためには、頭をつかわなくっちゃね。 機転を利かせると急展開する。 打てば響く、素敵な貴方です。 理性で考えれば、だんだん光に満ちてくるにしたがい白い花が光に紛れてゆくよりも、 しだいに光が消えて闇に沈んでゆく白さの方がくっきり印象深く見えてくるのは確かである。 当たり前のことであるけれど、それが雪柳を見ている播水の発見であって感動であるから真の俳句となる。 ささいなことで感動できるということが素晴らしく、日々新たなるエネルギーの源、活力になる。 はるかに遠いかなたに理想郷があるのではなく、身近なところに青い鳥は飛んでいる。 毎日同じことの繰り返しではなく、宇宙は成長しており、地球も絶えず成長している。 水の惑星は変化しつづけている。 その気づきは感動につながっている。 感動にもとずくことが大切で、生きているという胎動を感じるか否かで句が生きてくる。 俳句を詠むことは、自己の捉える哲学や宗教・倫理観にいつのまにかかかわってくる。 どれが良いか、悪いかではなく、成長の過程ということで捉え、そのときに感動(心)があるのか、ということだ。 自己に芽生える感情やイメージや思考に基づいていなければ、それは単なる文字の羅列に過ぎない。 だから、上手い俳句には魅力がない。 小賢しいばっかりで心がないからだ。 年季の入った俳人でも、人によりけりである。 生きている感動があるのかどうかで区別がつく。 手馴れた手つきで五七五に乗せたって、ちっとも面白くない。 面白いことをめざしている俳句もさらになんだか技巧に走っていて鼻につく。 まったくの素人、下手なのが、なんのてらいもなく平気で作った句に、 本当のよろこび、人間的なふくらみが感じられる。 ここでジレンマに陥ってしまう。 コマーシャリズムに乗ると、知らずにそのおおきな渦に呑み込まれてしまう。 なかなかそういうことに気づけない。 揉まれて洗練されたように思いこまされる。 俳句はつまり、人生の生き方そのものに深くかかわってくる。 価値観の相違がはっきり露呈される。 うまくいかないかもしれないし、どうなるかわからない日々を、冒険して、挑戦する。 不安や勇気がいたるところで顔を出し、その表情を掬い取ってゆくところにドラマがあり、 喜怒哀楽が生まれてくる。 それが生きいきとした生活であり、生々しい質感のある豊かさに繋がる。 激情的でドラマティックに思えるかもしれないのは、対決姿勢の緊張する生き方から発生している。 船首でまともな風を受けながら吹き飛ばされそうでしがみついている。 興奮してくるでしょ。 同じことをしていても、私だったらそのような感覚で受けとめるということになる。 思考、想像力、感情。 これらが複雑に入り組んで、周りの状況を切りとり認識する。 俳句とは、その認識の結果なのだ。 面白い俳句とは、その表現に生きている真実を感じられるか、ということになる。 俳句を読めば、その人となりが見えてくる。 こうして老いたいものだ。 人の痛みのわかること、つまり思いやりの心を育てることが人間としての究極だから。 何も耳に聞こえて来ないからといって、人は何もものを言っていないということではない。 言葉にすることのできる人は、恵まれている人であり、だから詩人は尊敬される。 世の中には、言葉にしたくても理由があってできない人、何かあるのはわかるのだけれど どう表現したらいいのかわからない人、あるのだけれどそれすら気づくことのできない人々にあふれており、 言葉にすることのできるのは氷山の頂なのである。 その下には、海に隠れて莫大な思いが積み重ねられている。 ふともらしたつぶやきのその下にこめられている疼きの思いをどれだけ想像して感じられるかによって、 人は連帯することができ、かろうじて心の交流がはかられ、それによって癒されたり救われたりする。 人を理解することができるのは、その人の中にある自分を鏡のように見出すからであり、 その鏡が霞がかかったように曇っていては、なかなか自分を見つけ出せない。 自分の中の鏡と相手の中にある鏡がぴかぴかに磨かれていることが必要で、 合わせ鏡のようにぴったり合ったときに、音叉が共鳴するように喜び感動する。 人間は、それぞれに限りない可能性を秘めた存在であるということは、 はかりしれないほどの大きさを秘めているということであり、へたをすれば、 広大な宇宙に放り出されてもう二度と遭遇することのできない虚空に漂うことに なるやもしれないという恐怖と表裏一体をなす。 だから、ことあるごとに暗黒の孤独を思い知らされ、奈落に落ちそうになりぞっとするのである。 気を許し悲観的になると、すぐ強力なブラックホールに呑み込まれそうになる。 積極的に、あるいは楽観的になるのには、エネルギーがいる。 男と女が惹かれあうのは、本質的にお互いにないものを求め合うからであり、 分かり合えるというのは、人間としての感覚に共通点を見出せることに起因する。 分かり合える部分で安らぎを得て、分かり合えない部分で強烈に惹かれ合う。 永久に分かり合えないものであるのにもかかわらず、分かり合えるかもしれないと思うところに 神秘的なるものが存在し、だから男と女は浪漫を感じ楽観的に生きていられる。 この世に異性がいるおかげで、愉しく暮らせるのである。 「朧」という語感は、春の夜の情緒をさし、ものの輪郭がはっきりしなくなってきているけれど、 その核心にはなんとなくやわらかくてあたたかい心がこもっておりふわふわ生きている感じがする。 愛というぷよぷよとした感情が現実のイメージの真ん中にあり、時の風化によってあらわになってくる。 確かに現実に起きているもろもろのことが、実際本当のことであるにもかかわらず、時の発酵により、 なんだか夢でも見ているようにうっとりとして、はっきりとした記憶が喪失してうろ覚え状態になってくる。 自分とは関わりのない歴史の出来事を無理やり暗記してテストが終わったらすぐに忘れてしまうときのように、 残念なことに、自分におおいに関わり、人生に深く刻まれた出来事であるのもかかわらず、 過ぎ去ってみれば朧に霞んでしまうのである。 悲劇のような喜劇のような。 悲しみという、忘れようとしてなかなか忘れられない負の遺産さえ、こうなのである。 喜びや感動、それらもまた同じ憂き目にあう。 時間というのは、まさしく誰にでも平等に与えられ、 良くも悪くも残酷にも、生まれたとたんに死へ向かって冷ややかに刻(とき)を刻みはじめる。 日常の仕事をせっせと処理する「時計係」は左脳にあり、記憶は海馬に蓄積され、記憶にないということは、 当人にとって存在しないと同じことになり、逆に、覚えているということは、存在しているということの証しになる。 これで、覚えていたり感じていられるということの大切さが、逆説的に鮮明になってくる。 あの日々の感動をときどき思い出す。 あのときの感動は真実である、と実感することが生きていることに繋がり、 ときどきふりかえって思いを新たにすることには意味があり、あのときの感動によって今があることを確かめられる。 忘れかけては思い出し、忘れかけては思い出す。 そうした行為が、時間という宇宙の法則に楯突くことになる。 1年が年ごとに速くなり、こんなに美しくなってきているというのに、 死がどんどん迫ってきて、しかも過去が忘却のかなたに消えかかろうとしてる。 文豪ゲーテは「時よ止まれ、お前はあまりに美しいから」と言った。 ゲーテの心境が非常によくわかる。 悪魔と契約書を交わすこともできないから、あれこれ抵抗を試みている。 物の核に心があり、その情景を俳句に書きとめておく。 何度も思い出しては思いを新たにする。 年がら年中幸せな気分で過ごすコツは、ここにもある。 愛する者と共に生きたこの世のすべてのものが遺品と思える、とはなんとすさまじい現世であろう。 どこへ行っても、妻の影を感じ、妻の手が触ったように、息がかかったように思えてくる。 妻が死んでしまっても、妻が生きているのと変わらないくらいのこの世を実感している。 ただ妻がいないだけで、まるで妻が生きているようにこの世が現存する。 これは、幸せなことだと思える(とまず仮定してみる)。 妻があの世に旅立ったという意識があり、 しかも、この世に妻の息吹が感じられれば、幾分淋しさもやわらぐのではないか。 妻に先立たれると、後を追っていきたくなるというではないか。 妻としては、後を追ってこられるよりも、生きてこの世を楽しんでほしいと願うものである。 ひとり残されて生きるのは淋しいに違いないであろうが、妻の遺品がそこかしこにあり、 生身の妻がするりと抜けて、またときどき顔を見せてくれそうな生き心地で暮らしている。 こういう状態が好ましい(と仮定したい)。 妻もろともにこの世にぽっかり空いた喪失感にうちひしがれるのは、 死にながら生きているようなもので、生きた心地がしない。 想像するだに苦しくなってくる。 もともと妻とは、空気のようなものというではないか。 いてもいなくてもかわらないような、それでいておおいに助け合って支え合っていた。 その妻がいなくなったとき、どのように克服していけばよいのだろうか。 彼岸桜が見事に咲いて、春爛漫の豪華な華やぎにある。 もしも散ったら、と想像するようなものである。 爛漫にあるときは爛漫に酔い、散ったら散ったでその散る儚さに酔う。 それが精一杯この世を謳歌することになるのである。 魂は永遠に生きているということが救いになり、そう考えることによってのみ癒される。 妻は死に、しかし妻の魂は春星のように遺品として残って在るように感じられるのである。 それを今日、ネットを見ていて、突然に目に飛び込んできて知った。 ちょうど2日前に彼の近所を通りがかり、今頃どうしているのかなあと思いを馳せたばかりであった。 数年前にお会いして、鳥の写真を見せていただき、また鳥についてのお話をさせていただいた。 とても優しい方で、こちらの思い以上にいつも親切にしていただいた。 息が詰まりそうになる。 脳幹内出血に倒れ、翌日には天国に旅立たれてしまったようである。 あまりにも不慮の出来事で、家族の方々もまだ冷静に受けとめられず、ネットに知らせることが遅れたという。 ネットを通して知り合うことができた素敵な鳥仲間であった。 生きている以上死ぬのは当たり前なんだけれど、いつ死んでもいいように、 悔いを残さないように生きていかなければ、と思った。 いっぱいやりたいことがあったに違いない。 ほんとにかくれんぼのようにふっといなくなって、またふっと顔を見せてくれそうな、そんな亡くなり方だ。 ネットで知り合った仲間の訃報はこれがはじめて。 彼の死をしっかり受けとめ、彼から学んだことをこれから生かしていくことが、 早すぎる彼の死に報いることになろう。 今年の彼岸桜は彼のために咲いたのだった。 というのは、校庭の桜は普通ソメイヨシノが植えられているので、校庭の蕾はいつまでも固くのんびりしてしまう。 終業式まであわただしく過ごし桜を見るゆとりもなく、春休みを迎えてやっと人心地になる。 すると彼岸花と同じように、時期が来れば待ってましたとばかりに律儀に咲く彼岸桜の見ごろを失するのである。 桜の名所である木曽川堤の桜は、誰が植えたのであろうか治水のためでもあったであろう、 江戸時代から咲きつづけ、それに加えて後世の人々が賛同延長させ、その結果老若多品種が植えられている。 複雑多岐に延々と植えられており、桜の開花時期が早くから始まり遅くまで咲いて楽しませ飽きることがない。 木曽川に沿って、ところどころ途切れながらも結局下流から上流まで桜は植えられている。 春休みになり、ようやく仕事から解放されて木曽川の桜でも見に行こうという気になって行ってみるといつも驚く。 春休みになってからでは遅い。 すでに桜は開花している。 それどころか満開だ。 推察してみると、月曜日あたりにほころびはじめ、火曜日には2分、水曜日には3分、木曜日には5分咲き、 というスピードで、金曜日の彼岸には彼岸桜の満開という具合に、急いで彼岸に間に合わせたのかもしれない。 今年の桜は、道に迷った遠出の帰り、いつのまにか木曽川堤に出くわして、偶然夕方に桜が満開なのであった。 思ってもみなかった桜に出会い、無事に帰ってこられてほっとしたところへこの桜の感動は大きかった。 桜との出会いが奇跡的、といったドラマを感じさせる。 毎年いつものように咲いているのであるが、受けとめる方の意識の持ちようで感動がぐっと深められる。 桜を見ようと期待して、やっぱり綺麗だった、というのと、思ってもみなかった桜に驚きの美しさとはまるで違う。 運命的な出会い、奇跡の出会い、というのはこういうことをいうのであろう。 突然に目の前に現れ、奪ってしまう。 竜巻のように予期せぬ現れ方で、圧倒的な力で根こそぎ奪いとる。 「生き生きとしてだんだんに」というのは、年齢を重ねて桜を見る目が生き生きとして深まってくるということもある。 桜を見て感じる思いが、複雑になり、感慨深くなってだんだんに進化を遂げるように思える。 だから、芸術というのは果てしがない。 これは生きれば生きるほどに素晴らしい桜に出会えるということになる。 感動する心は、老化しない。 スパイラルに上昇してゆく。 考えてみれば、男にとってみれば女とは神秘的であろうし、女にとっては男は不思議な存在である。 女と女の同姓であれば、なんとなく分かりあえ、分かりあえるぶんだけわからない部分がわかる。 ところが、男と女の異性というのは、人間であるというということで大きなくくりでこうなんじゃないかな、 とおおまかにとらえてとらえどころがなく想像の域がでない。 どこで、理解のわくをひっかけてゆくのかというと、自分を中心にして考えるしかないから、 だから、どこまでがわかるのかどこまでわかっていないのか、それさえもわからない。 となると、男と女が分かりあえそうなという美しい幻想をどれだけ抱けるのかということになってくる。 届かないとわかっていながら相手を求める手を出しつつ、出さざるをえない心境になる。 その間に存在する隔たりを、春の川とした漱石はやはり文学的センスがある。 人を救う癒しの水が、個人の中に流れていて、男と女の間には、春の川が流れている。 届かない手を川に浸しつつ、その川の水を通して繋がっている感覚に望みを託す。 その淡い期待を、春の川によって繋がれている感覚に表し、巧みだ。 春の川に映る向こう側の景色は、川によって分断されたこちら側の景色とはまったく違う。 こちらから見ると夢や希望に充ちた景色に見え、こちら側と変わらないだろうけれどまるで違った桃源郷のように見える。 その中にいる男であるから、何から何までオーラにくるまれてしびれるような感覚がつきまとう。 分かりあえないことを前提にして、その橋渡しに春の川が流れているというのが、 男と女の心理を描いて巧みであった小説家漱石の感慨であるところにこの句の醍醐味がある。 春の川とは、雪解け水のひんやりとして清らかな電解質になって、正と負のイオンの移動があって、 男と女のプラスとマイナスが引き合うという奇跡的なイオン結合が起こり、それを感じられるかどうか。 そういう春の川を感じられるかどうか、だれでもというわけではなく、春の川を感じさせない場合もある。 私と貴方の間に春の川が流れている。 それは、悲劇という意味ではなく、どちらかといえば喜劇であり、 春の川を通して繋がるなんて、とても素敵に思えるんだけれど、どうかしら。 いつもは乱れた書架をなんとかしなければという気になって、その書架を目にするたびにいらっとする。 ところが、春愁とは、春のもの思いに気をとられる。 今まで気にしていなかったことが突如気になりだして、どうにもならないことにくよくよしだすのである。 身近な生活から、春になって行動範囲が広がり、別れや出会いを経験し、とりまく自然が動きだし、 そこで自分自身へのゆさぶりが感じられてくるのである。 卵から殻を破って成長を遂げるように、人間も目に見えない卵の殻を破りたいと願う。 人間には、そういう目に見えた節目がないから、まさかそういうことだとは思えず、 何やらわけがわからないままもやもやとして内から湧き起こる成長のエネルギーに悶々とする。 春になってからの愁いとは、冬の間に封印されていた思いが一気に噴きでて雲をつかむような気分。 まわりは春になり、華やいでいる。 それに合わせて、人間も華やいで成長したいのだ。 いっしょに春を満喫すればいいのだ。 それを、なんだかんだと既成概念が邪魔をして、こうでなければと覆いをするから鬱屈してしまう。 書架の乱れを気にしないで、春を愉しもうではないか。 春なのだ。 人間にも春が訪れている。 だれかいっしょに踊って歌ってくれる人はいないか。 書架が乱れているというのは、頻繁に本を出し入れしたり、本を重ねて積み上げているからなのであって、 書架を飾りにしている人は整然としている。 読書人の書架は乱れているものと思うのだが、どうでしょう。 そういう人は、書斎に閉じこもっていないで、戸外に出た方が良い。 青春時代には、メランコリーやセンティメンタルに憧れてもいたりしていたが、実際にそうなってみると、 生産性がないばかりか、すべてが停滞するので、これは苦しい。 どうどう巡りになって負のスパイラルに陥る。 アンニュイも似ている。 病気でもない限り、時間がもったいない。 といわれても、まあどうしようもなくぼうーっとする気分が、春愁なんでしょうけれど。 自転車に乗り、近くの公園や川縁にでかけ、春の訪れを肌に感じてのんびり時間を過ごす。 ひとりベンチに腰掛けて、読みかけの本をとりだしてゆっくり読みはじめる。 誰にも邪魔されることなく自然の中で読書するのも、開放的な気分になり、室内とは違った理解がすすむ。 わざわざ本を読みに来たのではなく、野外で本を読んだり、鳥を見たり聞いたり、風に吹かれたり、 木々の芽のふくらんで、川の水嵩がふえてくるのを感じるために、自然の中に身を置きにきたのだ。 だから、蝶が飛んで来れば、蝶がひらひら舞う様子にしばらく見とれてしまう。 蝶が見えなくなるまでずっと見つづけて、遠くに行ってしまったらまた本を読みはじめる。 まったく焦ることなく、読みかけのページに目を落とし、さっきまで読んでいた行を探すことになる。 蝶が飛んでいた時間の経過があるぶんだけ、行が飛んでしまうことになるとは不思議だ。 その思いつきに合点したからこそ句になるのだ。 そのあたりが詠み手と受け手の双方向の暗黙の了解事項になる。 本の中の虚構の世界から蝶を追う現実世界への移行がなめらかに行われ、 蝶が消えて本の中の想像世界へとまたスムーズに返って行く。 現実と虚構の往来を行の飛んだことで表し、それぞれの世界への深い没入ぶりが伺える。 蝶を追う時間も読書している時間も連続して透明で静かな時間が流れており、滞っていない。 自然の流れの中で、時間がなめらかに経過して、浩山人の生きている時間が溶け合っている。 現実と読書が両輪となってより深められていくような人生の充実を感じさせる。 自然という無限の情報を取り入れながら、人間の叡智を読書から得る。 浩山人という俳人は、はかりしれない深みを内に秘めているに違いない。 光の当たり具合で多少違うところもあるかもしれないけれど。 その基準に従い辛夷を見ると、近くのどこかにあるだろう木蓮のつぼみを想像し、 今ごろうずうずしているだろうな、とか、小指の爪ぐらいか鳥の嘴か、などと中りをつける。 やがて辛夷が咲きはじめると、きっと木蓮のつぼみはこぶし(拳)ぐらいにふくらんでいるはずだ、と連動する。 辛夷から木蓮、そして桜へとずるずるっとひとつながりになって百花繚乱の春へと突入してゆく。 花の少ない時期に咲く白い辛夷と木蓮は、桜の春を呼び出すのにふさわしく、 辛夷は純白、木蓮は乳白、桜はうす桃白と、少しずつ艶めいて春本番のパステルカラーへとつなげる。 図鑑には、辛夷はモクレン科の落葉高木で、木蓮はモクレン科の落葉低木とある。 住宅地では、ほとんど木蓮が植えられ、たまに見かける辛夷は木蓮よりも背が低い。 植樹されて日が浅いため。 まず最初に木蓮が人気を集め、その後紫木蓮、辛夷、しで辛夷へと移っていったようである。 山に行くと記述どおり、ほとんど白い花は辛夷になり、背の高い辛夷が白い雲がかかったように咲く。 辛夷は、見るからに野性的で清楚だ。 木蓮には、豪華なあでやかさがあり、人の手が入った美意識がある。 だから、街の景観に木蓮がしっくり合い、春の訪れを告げる花木に選ばれて庭や街路樹に好んで植えられるのだろう。 ふっとこぼれたため息のように小さな小指の爪ほどの白いつぼみが、見るたびに大きくなり、 自然の驚異そのままに、ぐんぐん生命力をかたちにして、まるで春の妖精がほほえんでいるようにふくらむ。 そのうちにいつ咲くんだろうかと日に日に待ち遠しくなってくる。 じれったい。 梅や桜の開花は国民的関心事になっているけれど、木蓮はまだそれほどでもなさそうだ。 花の好きな人にはたまらない魅力があり、見逃せないけれど、どうも好き嫌いが分かれる。 桜と比べるといやおうなくその理由がクローズアップされ、国民的に愛される桜とはだいぶ違う木蓮らしさがわかる。 木蓮を実際に近くに見るときには、それほどでもなく、遠くに見つけたときにその美しさは煌めく 木蓮は、桜のように近くで愛でるというより、少し距離をおいて遠くから眺めるのに適している。 遠くから見ると可愛らしく、春なのにまるで雪国の吹雪を思わせるように街にぼうっと異次元を現出させる。 もう帰っては来ない真冬の吹雪を幻想的に見るような、懐かしさといとおしさに胸がさわぐ。 春に雪のようなはかなさを木蓮に見る。 近くで見ると木蓮は、咲きはじめるときがピークのデリケートな女性の素肌のようなのだ。 疲れやすい。 日に日に老いてゆく人肌のように、みるみる残酷に老醜をさらしながらだらしなく散ってゆく。 老いさらばえるなかに美しさは見いだせないものだろうか。 老いても生きているのは美しいはずである。 正雅は、その崩れた中に新しい美を見いだそうと新しい視点を提案しているように思える。 あたたかい雨がふり草木が芽を噴きだす。 木曽川、揖斐川、安濃川、雲出川、金剛川をめぐり伊勢湾の干潟の鳥を観察した。 自然が豊かに残っているところに野鳥が飛ぶ。 野鳥を見るのが好きなのか、野鳥のいる自然が好きなのか、きっとその両方なのだろう。 金曜にあたたかい雨がふり、土曜の昼から雨があがり、日曜日は絶好の鳥日和となった。 幾分風が強いものの晴れわたり、寒くて凍える季節は過ぎてやっとあたたかい春を迎えた。 川面や海面には光が満ちてきらきら耀き、春のエネルギーが海から盛りあがってふくらんでいる。 木の芽が噴きはじめうっすらと黄緑がかってきている木があるものの、まだほとんど裸木だ。 その下の河原の葦や葎も枯れ葉や枯れ枝を晒して、一面乾いた灰白色に殺伐としている。 遠くを見やれば枯れ野になっているけれど、足元を見ればその枯れ草の根元から緑の芽が萌えている。 まだ動き出したばかりで隠れ場所がないので、この季節の渡り鳥は小さくてもよく見つけられる。 何十年のキャリアを持つベテラン集団の目による鳥合わせの結果、54種類を確認した。 珍しいところでは、セグロカモメの幼鳥。 4年かけて成長になる1年目の背黒だ。 それから、ミヤコドリ。 ミヤコドリというと、ユリカモメのことだとばっかり思っていたら間違っていた。 歌の世界と現実の世界は違っている。 今回両方を見る機会があってようやく気づいたのであった。 実際のミヤコドリの方が綺麗だ。 嘴と脚が赤く、特に嘴は血のように鮮やかな色をしている。 それから、スズガモの数万羽の群れ。 それから珊瑚の海の魚の群れに似た動きをする千鳥の舞。 一瞬にして一斉に向きを変えた瞬間一斉に姿が消え、次の瞬間真っ白に耀き姿を現す。 あたたかい風に吹かれて集団で群れ飛ぶ。 水鳥だから陸の鳥に比べて濡れても平気だろうけれど、 やっぱり雨がふっていたときには、元気よく飛べなかっただろう。 晴れれば、思いっきり羽を伸ばして風に向かって気持ちよく飛べる。 草木もきっと同じように、根から水分を吸収したあと気持ちよく葉を伸ばしているのではなかろうか。 子規は、これらのことを予見して、枯葎(かれむぐら)にあたたかい雨がふっているのを見ている。 いのちのうごめきに感動しながら、自らのいのちの胎動を受けとめている。 筒状の2枚貝で、指の太さの筒が20cmくらいある。 潮干狩りにアサリを採っているとばかり思っていたら、トンガ(唐鍬)で砂を削り穴を見つめていた。 面白いなあとしゃがみこんで覗いたら、白い粉をふり入れていた。 何ですか、と尋ねると塩であった。 さらに見つづけていると、穴からひゅんひゅんと飛び出すタイミングを見はからってその頭をつまみ、 ずるずるっと細長い貝を引っ張り出す。 すぽっと捕獲されてしまった貝はびっくり、だらりとした身を晒す。 曲想にリズムがあるように貝の大きさに合わせてぬめっとしたリズムを刻みながら頭を出したり引っ込めたりする。 ふりかけの塩を満ち潮かと騙された貝は、そうとも知らず用心深くちょっと頭を出してすぐ引っ込める。 1、2秒するとさらに様子を伺うように慎重にしかもさっきより高く頭を出してから安心したようにゆっくり沈む。 このあと調子をつけてずるずるっと背伸びして顔を出したところを、待ってましたとばかりに生け捕りにする。 貝の持つ固有のタイミングに合わせ、イチにの三でマテ貝を捕らえる。 海の波のリズムに似ている。 頭の伸びきったところを親指と人差し指でつまむようにして引くのがマテ貝採りの方法であるが、 名人の話によると、この指の押さえどころと押さえる力の入れ具合にコツがある。 貝筒がじゅうぶんに押さえられるだけの高さに飛び出たところをすかざずつまむことと 力を入れすぎてはやわらかい筒が潰れ、力が足りないとするするっと逃げられてしまう。 マテ貝採りの名人は、次々と成功しまたたくまにひと山の貝を採ってしまった。 見ているだけでも面白く、実際に採っている人はもっと面白いであろう。 それにこれを茹でてストーブの上で佃煮にすると病みつきになる旨さだそうで、 毎年この時期を楽しみにして1年を過ごすのだそうである。 鳥たちは、砂浜を歩きながら貝を探り当て、細長いくちばしで器用に突つき割って生で食べている。 もっとずっと見つづけていたかったのだけれど、干潮2時を過ぎると潮が満ちてくるので 風紋になっている数センチのぬかるみを選びながら沖に出て行った私は帰れなくなってしまう。 潮干狩りの用意をしてくれば良かった。 5,6個でもお土産に採りたかった。 干潟に野鳥を観察に来て、ミヤコドリを近くで観たいと潮が引いた沖に出てきたらマテ貝採りに遭遇した。 偶然に出会う面白い出来事というのは、なぜだろうか数倍興味を引き、印象に残る。 求めて目的に辿りつくのと、偶然に巡りあうのと、どうしてこうも受け取る感覚に違いが出てくるのであろうか。 全く予想もしていなかった新鮮な春の出会いになった。 中学校を卒業したあと、生まれて初めての勝負にでることになる。 いわゆる15の春だ。 揺れる思春期に一か八かの大きな不安を迎えるわけで、受験生ばかりか親もそわそわして落ち着かない。 梅が咲き終わり春一番が吹いてあたたかくなっても、受験生には高校入試が終わらない限り春は訪れない。 進路が決まるまでどっちつかずの白紙状態にあり、真っ白い地図の上にぽつんと定まらぬ影を落とす。 この時期、自分の行き先を求めて、日本国中の卒業生たちが日本のあちらこちらを彷徨(さまよ)うことになる。 翌日に試験を控える受験生たちは、布団の中に入ってからもなかなか寝つけぬ夜をすごしたであろう。 いつもより早めに目が覚め、いつもとは違った緊張感に、特別な日の朝が記憶されてゆく。 高校入試の朝をいまだに覚えている。 縁起を担いで朝からお弁当用のカツを揚げる匂いが充満していた。 なんだか懐かしい。 あんなに昔のことなのにビデオ撮りでもしたかのように脳裏に焼き付いている。 ひとりでバスに乗り、駅から歩き、いつもとはまるで違う受験会場に向かう。 慣れない電車に乗って遠くの街に出かける。 駅の改札口は学生服やセーラー服でごったがえしている。 最短距離がわからないせいでうろうろしているから実際の人数より多く感じられる。 しかも、通路を立ちふさぐように数人がかたまっているので、通勤の流れの邪魔になっている。 うろうろきょろきょろして落ち着かない挙動を示し、間違っていやしないだろうかと不安な顔が異様に映る。 しかし、当の受験生にとってはまわりが見えず、頭の中は受験会場のことだけで精一杯である。 試験会場に着いてしまえば、あとはヤルだけだから、かえって落ち着ける。 田舎育ちで街に出たことがないから、街を彷徨う感覚が一番不安であり、受験子の心理を言い当てている。 光のない真っ暗なトンネルをだれしも経験したというのに、行き先も決まり新しい生活が始まると、 不安でたまらなかったトンネルのことなどすっかり忘れてしまう。 人間ていい気なものだ。 12日は筆記試験、13日は面接。 合格発表は17日。 結果がでるまでの宙ぶらりんの真空状態3日間。 もやもやいらいらとして落ち着かない状態は長く感じられる。 ほどなくして決着がつく。 しかし、これで終わりではない。 これからも、また何度かこういう状態がつづき、 このトンネルを抜けながら、少しずつ成長を繰り返していくのだ。 まるで自分が春の渦潮の柱になったようにぐねぐねしなるように感じられ、春の真っ只中にいることを自覚した。 春の渦潮をダイナミックに捉え、自分の身体感覚にからめとってしまう画期的な技法だ。 春という季節が、ぐるぐる自分をとり巻いて、しかもその中心に確固とした自分を据えてみせる。 スケールの大きい自然に肉薄して、身震いする感動として繊細に感受している。 新興俳句の旗手、山口誓子。 清々しい汽笛に触発されて全身の細胞が蘇るような斬新さだ。 歌を歌っているときに同じような経験をする。 まさに総身は、音を発する楽器そのものになる。 歌いながら時を越え、作曲家の心の中で鳴り響いたであろう音楽を感じながら自ら奏で音楽になる。 歌いたい熱いエネルギーに突き動かされ、声帯という弦に息をふきかけることによって音を発し、 その声帯の音の振動が、伏せたお碗のようになっている頭蓋のてっぺんに達し、 雷が窓ガラスをびりびり響かせるように頭蓋を響かせ、頭蓋からはるかなる天上へと透明に発声される。 一番激しく振動しているのは頭頂部で、全身が共鳴箱になって細かくぴりぴり震えている。 弦と弓をしっかり張らないと音が出ないように、声帯をぴったり合わせないと張りのある声にはならない。 お輪を叩けば響くように、総身を適度に緊張させ操ることによって細かいビブラートがかかり、 たっぷりとした海面にさざめく光の反射のようにきらきら煌めく声になる。 発声すると、風車がからからまわるように声帯がコロコロまわる。 その煌めきが人々を魅了する。 海面に光が当たっているのと当たっていないのと、眩しさに違いがでてくるように、 原石を磨いたダイヤの輝きはオペラの声となって、この世に最も美しいメロディーを奏でる。 それは、本物のベルカント唱法を指導するボイストレーナーとの出会いにかかっている。 自らが苦労してベルカント唱法をマスターした方の方が、教え方もうまい。 他の歌唱法を知らなかったので、変な癖がついていなかったのが幸いして比較的早くマスターできた。 歌うのはこんなに楽しいものかと今まで経験したこともないような新しい世界がひらける。 ヴァイオリンを弾きこなすのには大変な歳月が必要とされるけれど、自分が楽器となって歌うのは、楽で楽しい。 最近は、耳を澄ませばオペラの声がテレビコマーシャルからも聞こえてくるようになってきた。 この歌声は聞けばすぐにわかる。 発声に無理がなくなめらかに透きとおりつやめいている。 この歌唱法はまだ一般的ではないけれど、もうあと50年もすればもう少し普及してくるように思う。 べルカントで歌うと高音域が楽に出るようになるから、音楽を聴きながらいっしょに口ずさめる。 街に流れる音楽がいっそう身近に感じられ、音楽が生活と密着してくる。 言葉が生きるそのもののように、言葉と音楽はなくてはならないものとなる。 「作者はこの句の出来る前から『恍惚』という語を何とかして一句の中でこなしたいと願っていたという。 又、『馬』も関心の深い素材で、『恍惚』という言葉への愛着と『馬』という実在への傾倒が、 ある日あるとき交叉して、一句を成したのである。 」 俳句ができあがるまでの過程がわかり面白い。 好きな言葉があり、それを熟成させて俳句を成す。 今まで意識してそのようにしたことはなかったけれど、考えてみれば俳句ができあがるまでには、 無意識にある言葉への愛着があり、それをじっくり育て、そしていつか実らせたいと願っているはずなのだ。 当たり前といえば、当たり前である。 純粋な魂は愛であり、愛は時間をかけて育てるものだから。 言葉の選択は厳しく行われており、私だったらそのようにはいわない、という線引きがある。 うまい表現というのがあるかもしれないけれど、自分の人生に引きつけたものであるかどうか、ということが、 やはり私にとっては気になるところだ。 いかに素晴らしくても、強化ガラスの向こう側の景色では、なんとも歯がゆい。 現実のこちら側で生きる五感を伴っていなければ、自分のものではない誰かに借りた服を着ているような気分になる。 結局、人には譲れない自分そのものの言葉の言い回しが頑固にある。 自分の呼吸そのものだ。 ひと目ひと目毛糸をひっかけ手で編む。 不揃いであったりするけれど、それがいいのだ。 この一瞬に隠された私だけの人生が詰まった句であることが私にとってオリジナルの宝物になる。 自分にとってしっくりこない言葉をつかえば、どうもぎくしゃくしてしっくりこなくなってしまう。 これは微妙だ。 俳句に限らず、普段の日常生活でも、難しい言葉や聞いて不愉快な言葉は自然に避けている。 反対に、自分の好きな言葉、聞いて気持ちがよくなる言葉をできるだけつかうようにしている。 といっても、あまり語彙が偏ってくるのもカラーが決まってしまうからとまた気をつかう。 気をつけているようでも、客観的に見たらどうも主観に傾いて青色がかっているように映るかもしれない。 好き嫌いがはっきりしている。 そして、何でも一番を決めたがる癖というのは、俳句を詠むのにも影響し、 これが知らずに役立っている。 というのは、表現しようとするとき、一番ぴたっとくるという言葉を自然に選ぼうとする。 一番を決める選択の苦楽を味わいながら、ある瞬間一分のすきもなくぴたっとはまる表現を見つけた場合、 自分という輪郭がくっきりと描ききれたような気がしてうっとりする。 自分を形づくる魂の彫刻家だ。 こういう経験を積み重ね、俳句を詠む楽しさがわかって病みつきになり、いつのまにやら抜け出られなくなる。 最近「花粉症」と「春愁」という言葉が気になってきた。 昔はこの言葉とは縁がないと思っていたけれどあにはからんや。 言葉にも個人の歴史があり、変遷がある。 どんな革命が起きてどのようにぬりかえられていくのか、自分ながら愉しみである。 そわそわして気ぜわしくなる。 辛夷は、青い空に映えて春を告げるにふさわしい花だ。 まだ山が眠っていて、木々は裸を晒しているのに、 四温が続いたある日いちはやく白い綿帽子をかぶせたように清楚な花を咲かせ、はっとさせられる。 山茱萸、土佐水木・日向水木や満作、ミモザの花も咲いてはいるが、「白」ではないし、 それより先に梅も椿も咲いているけれど、「空に咲く」といった感じではない。 ああでもない、こうでもないと考えて、感情よりも理の勝った歌の作りだ。 辛夷のあとに咲きはじめる白い花といえば、白木蓮そしてなんといっても桜だろう。 辛夷が咲く頃には、木蓮がくちばしのような白い蕾を日に日に膨らませつつあり、 みるみる風船のように大きくなって、今か今かと辛夷のあとの順番待ちをしているようになってくる。 木蓮が崩れはじめると、桜の出番。 ひかりを集めていっぱいの毛に覆われた猫の尻尾のような蕾が割れて、 黄緑の葉っぱを一枚のぞかせ飛び出る。 それから白い花びらを5.6枚、たよりなさそうにひらりとひろげる。 このふぞろいの細長いだ円の白い花びらに、なんとも奥ゆかしい野趣がある。 ひとつひとつなにもかもが違っていて、その咲き方の乱れようが掻き毟られるように淫らだ。 しかも上から見れば純白なのに、裏から見ると、うっすら紅色の筋が入って、実に淫らだ。 女の化身としての辛夷で、四手辛夷になると花魁のイメージになってくる。 それに比べると、白木蓮というのは大きくて、男の化身に思えてくる。 圧倒的に庭木に選ばれているのは白木蓮で、辛夷の方は相当マニアックな庭になってくる。 花水木は最近の流行で、どこの庭にも1本植えられているけれど、日本古来からある山法師となると珍しい。 辛夷は野性的で淫らで好きな花だ。 家の近所でも咲きはじめ、とうとう、といった感じになってきた。 良く見ると変わっているけれど、そしらぬふりして普通らしさを装っているところがたまらなく可愛い。 楚々として春を告げる花辛夷。 春は確実に抜き足差し足忍び足。 しとしとふっていたさっきまでの雨が消え、雲に隠れていた太陽が雲のすき間から光をこぼしやがて晴れてくる。 明るさを増すにつれ雨に洗われた景色が、時間の経過とともにしっとり眩しい光の国へと変わっていく。 雨から晴れへと生き活きと陽転する野の姿をとらえ、動きのあるエネルギッシュな句として瑞々しい。 ひと雨ごとに春を呼び、力強く草の萌芽を誘い、土中に棲む虫たちを眠りからゆさぶりさます。 雨のはじまりに出会うことが多い印象を受けるのは、傘をさすわずらわしさをよく覚えているからだろう。 雨の終わりに遭遇することも同じくらいにあるはずなのに、それはめったにお目にかかれない。 春雨との出会いを喜ぶ気持ちが強く、音もなく静かに消えいる別れ方があまりにも鮮やかだからだろうか。 雨音がしなくなってもうやんだかなと思って傘を傾げてみると細かい雨が顔に当たってまだふっている。 結局、傘をさしたままを通し、やんだことを知らないままに傘をたたむことになる。 ところが掲句のように、うす日がさしてくると、雨あがりがかろうじてわかるようになる。 目を凝らせば、雨に光があたって、銀色の細い絹針のような斜線が走っている。 これが雨雲に覆われて暗いと雨が見えない。 光がさしているから雨のあがるのがわかるのだ。 雨があがりそうでまだふっている、この嬉しいような淋しいような微妙な心のゆれが愉しい。 きっともう傘はさしていないだろう。 あがりはじめる雨は、ふられてもぬれないし、この春雨は心を潤す。 面の皮が厚くなってきたせいだろうか、雨を感じないのに、斜めに落ちる光の線はしっかり見える。 だんだん野に光がみち自分の周辺からひろがり野の全貌が見えてくると、新しい世界がひらけてくる。 緊張が解かれ、閉じこもっていた小さな内側から、外の世界へ行動的に向き合う力強さが湧いてくる。 野の光の中にあり、春の気に充ちて意気揚々とした気分になったことだろう。 春雨のふっている景も情緒があってよい。 雨あがりもまたよい。 雨があがりつつあるその経過も味わい深く良いものだ。 春は妖しくなまめかしい。 そうか、春愁は贅沢なのだ。 目から鱗が落ちる発見。 春愁するだけの余裕があってはじめての春愁とはね。 余裕がなければ春愁にまで至らないということか。 そういえば、このところ余裕がないので春愁とはとんと縁がない。 ゆとりね。 ユトリロは好き。 春思よりも掴みどころがなく、なんだかわからないけどこれって春愁?っていうほどのかすかなもの。 繊細な心によってしか捉えられないふわふわとした贅沢なエリートの雰囲気・気分なのだ。 まわりが春らしくなってくる頃、なんだか変な気分、それが陽気な気分であれば、春うららとなり、 ひきはなそうとしてはなれないうっすらぼんやり影をひいていれば、春愁となる。 よりどころのないたよりなさに襲われて、その原因が掴めないから、なんとなくもどかしい。 その理由がはっきりしていれば、それは春愁とはいわない。 というのは、原因がはっきりしていれば、気持ちの性質は個性をあらわしその目鼻立ちが見えてくる。 例えば負の要素を含む気分は怒り、恐れ、哀しみ、寂しさ、憂鬱、憎しみなどがあるけれど、 その原因がわかれば、春愁よりもいくぶんはっきりとした輪郭をあらわし、春思、春惜しむ、春恨むとなる。 秋は終末気分が漂うということもあって、春愁よりもわりあいわかりやすく感じやすいように思われる。 春愁は、確かにそういわれてみれば、贅沢に時間をもてあましているような気分にも思える。 貧乏暇なしにあくせく働いていると、この春愁の贅沢は味わえない。 そして、恭子の場合は、「溺れけり」とあることから、贅沢の極みにあることを謳歌している。 羨ましいかぎりである。 だからちょっとここで、冷静に頭を切りかえ考え直してみたい。 この贅沢に溺れようとすればできそうな、心がけ次第ということになりはしないか、ということである。 要するに、幸せと同じ感覚である。 気づこうとしなければ青い鳥がそばにいても見えずに屋外を探す。 春愁がそばにいても気づけないだけで、なんとなく気分がすっきりしないのは春愁のせいであって、 誰かのせいでは決してなく、あなたに原因があるのでは絶対にない、なあ〜んてね。 なんだかもやもやした気分があると、全部誰かのせいにしたくなるのが私の悪い癖だ。 すると、胸がちくちく痛んで、恨み辛みの愚痴がこれまたでてくるでてくる。 これを春のせいにすればたちまちのうちに原因も雲散霧消して、贅沢な春愁となりにけり。 するとなんだかうっとりとろりとした蜜を舐めているような贅沢な気分になる。 なんとしたことか。 螺鈿細工は、おうむ貝・あわび貝・夜光貝などの真珠のように光る部分を切り出して薄片として、 漆器などの面にはめこんで、さまざまな装飾模様を造りだす。 見る角度によって色の光沢を変え、真珠の艶を帯びて虹色に変化して美しい。 卓は、香華などを置く机をさしているから、散る梅は花瓶か水盤に活けてある梅なのであろう。 散った花びらも生け花の素材のひとつとして観賞し、それを「螺鈿」としたところが見どころである。 生け花として活けられた梅が、まだいのちを宿していて、その生を終えようとしてしているところを愛でられている。 美意識の鋭い蕪村ならではの掴み方で、漆黒の面に落ちた梅の花びらがときの経過とともに、 螺鈿の妖しい光を放ち、華麗な幻想を抱かせながら、海のさざ波に洗われる貝へと化身する。 白い花びらが水分を失い変色して哀れな姿になる前に、「螺鈿」としての永遠のいのちを付与した。 芸術というのは、こういう過程をいうのではないか。 一瞬のうちに過去へと葬られていく。 その瞬間を言いとめることによって永遠のいのちを得る。 過去へと押しやる宇宙のエネルギーに抗うエネルギーを与える者が芸術家である。 刻一刻と進む歯車をぎいぎいと押し留めようとして無理を承知で戦いをいどむドン・キホーテのような行為だ。 今にも決壊しそうな大洪水の前に、ひとりで果敢にくいとめようとするグスコーブドリのような行動なのだ。 それがうまくいけばいいのだけれど、うまくいくとはかぎらない。 それがわかっていても、動きださずにはいられない。 芸術家は革命家である。 (深空はみそらと読ませる。 ) 心の動きが面影から蝶の動きへ、さらに空の深みへとたどり、それはすなわちその思いが深められていく様を表す。 思いはそこで終わるわけもなく、消えては浮かび、浮かんでは消え、面影に季節の彩りが加えられさらに深まってゆく。 その展開が流れるようになめらかで、しかもみるみるうちに対象を変えながら、最終的には面影が また深い空の上に浮かぶという鮮やかな手口に、してやられたという感慨を抱かせられる。 面影にまた戻ってゆく、という当然の成り行きに異議を唱える人は、面影を思い浮かべることのない人であろう。 面影を思い浮かべるとき、脳の構造はいったいどうなっているのだろうと脳の神秘を考えさせられる。 目の前に在るのは現実の世界であるのにもかかわらず、人を思えば、その人の面影が浮かんでくる。 残像作用のおかげで私たちは、映画をまるで連続しているように見ることができるように、 脳には像を記憶するカメラのような機能がある。 それは、思い出したいときには即座に現れるという魔法も使う。 どこにいても、思い出したいとき、写真をわざわざ取り出さなくても脳裏に焼きついており、ふわりと現れる。 現れたり消えたり自由自在に操ることができ、思い出したくないときは、どのような仕組みになっているのか、 不思議と現れない。 「見えないものを見る」というのは、意識が強く関係していそうだ。 思い出したいときに目を凝らせば像が浮かぶ。 ぼんやりと思い出しているより、面影の実像を浮かべながらの方が、幸せな気分に浸れる。 その面影を目に浮かべながら、その面影が動き出すのに任せて対話している時間がまた愉しい。 聞いたことのある声が生々しく聞こえてくるようになるとますます面白くなって、没頭してしまう。 にやにやひとり笑いをしているから、他人がそれを見たら、結構不気味であるかもしれない。 そういう経験は誰にでもあり、特別なことではない。 恋という媚薬はこの世を薔薇色にする。 そういう世界に遊んでいるとき、蝶がその世界に入ってきて、思わず知らずにその動きにつられる。 ふわふわとたよりない動きが、その世界にはぴったり調和して違和感がなく、面影と蝶が融和する。 そして、その世界にしばらく遊んだあとどこか遠くへ飛び去ったあとに残された空の深さに感動するのだ。 それは恋によってぬりかえられた輝かしい世界を表し、蝶はまた自分自身の投影でもある。 The best and most beautiful things in the world cannnot be seen or even touched. We must be felt with the heart. Love is being stupid together. 恋というものは、誰もそれに逆らえず、自分を守ることさえもできない。 どんな馬鹿なことをしでかすかでその深さを量ることができる。 恋の陽気な気分が幻影を抱かせ、春はことさら狂気に充ちてふわふわ浮きうきさせる。 はっきりとそのどちらかをさすこともあり、ぼんやりとその両方をかねていることもある。 句を読んで判断するのであるが、読むたびに変わり、読んでもなんだかわからないこともある。 俳句に使われる言葉は、多様性があり、かちっと決めるよりは曖昧に包含するような表現が好まれる。 それが広がりのある豊かな余韻を醸し出すことにもなり、人間に寄り添う俳句らしさともいえる。 白黒はっきりさせたいというせっかちな向きには、俳句は微妙にしっくりこないかもしれない。 あまりにも鋭く切れすぎて頭脳明晰に斜めに構えるようではたちまち川柳になってしまう。 こうしてみると俳句を嗜む人間の性向がある程度見えてくるように思える。 人間のもつ曖昧さ、ファジー感覚をどれだけ許容できるかということになってくるのではなかろうか。 なんでもかんでもはっきりさせたい傾向のある人は、おそらく17文字の縛りにうろたえるはずだ。 はっきりと追求したいものごとは、とても17文字では表せないからだ。 それに、なんだかもやもやとした言葉にならない感覚を捉えようとすることにも関心は向かないだろう。 優柔不断というのとはちょっと違う、どっちつかずのゆれにたゆたう遊び感覚、とでもいっておこう。 何が何だかわけがわからないぼんやりとした得体の知れない何か変を相手にする。 どこがどうなって面白いのか。 いったい何にとり憑かれたのか、何かが狂ってしまったのか。 誰も知らない、おそらく結論が出ないだろうところの怪物が、好奇心の向かうところなのだ。 例えば人間の心なんていうのは、一番身近にいる自分さえもわからないから面白い。 昨日まであんなにかっかと噴火していたのに、いつのまにか穏やかな人になってしまう。 とても同じ人とは思えない。 現実は小説よりも紆余曲折があってはらはらどきどきの実感を伴い、しかも主人公だから面白いに決まっている。 だから、俳句とか詩に書いておきたいと思うわけだ。 小説ではないし、ドキュメンタリーでもない。 大空に広がる雲の形が二度と同じではないように、同じ日は絶対にありえない。 昨日ではない今日の一刻が瞬時に経過して、しかもまわりのあらゆるものも変化しつづけている。 さて掲句。 これは「春日」から受け取るある実感があって、その言葉にならない曖昧なものを表現しようとした。 「春日」のイメージを私(花蓑)はこのように表現してみましたが、みなさんにこの表現で伝わりますか。 あとは読み手にお任せする。 丸投げの潔さ。 真意は伝わるだろうか。 神のみぞ知る。 芸術とは何か。 我ながら何がなんだかわからないままによく進んでいけるものだと感心する。 闇雲に進んでいて、あとからわかってくることもある。 あれはこうで、これはこういうことだったのか。 おぼろげながらわかったとしても、それはある一瞬のことであり、また姿を変えて次には違った顔をしている。 わからないのはこの私であって、あちらからはすっかりわかってしまっているのだ。 まだ慣れていないからぶつからなくてはならないわけで、ぶつかるたびに生身の身体に痛みを感じる。 かろうじて瞼の奥に届く光を感じながら、どれほどの恐怖を味わいながら歩みだしているのだろう。 一寸先は闇。 危険に満ちて、大きな不安と戦いながら、もう終わりかもしれないという絶望的な状況における選択なのだろう。 裏通りの狭い道を傷だらけ痣だらけになりながらよろけて歩く哀れな犬の姿が浮かんでくる。 新しい道を果敢に歩行しているとしたら覚悟の上ということになり、多少の痛みには耐えられるような気もする。 じっとうずくまって寒さに凍え死にするわけにはいかない。 腹をすかせて飢え死にしたくもない。 いつもの道では餌にありつけない。 けれど、新しい道に一歩踏み出そうとするには勇気がいる。 往来を歩行することができるということは、散歩に連れて行ってもらえない犬に比べれば恵まれている。 また主人の選んだ道しか歩行できない犬に比べたら自由意思でどれだけでも選択肢がある。 誰もひきとってくれない盲犬だから手に入れられた野生の自由というものがあるかもしれない。 盲目といっても、どの程度、いつから、どうしたのだろう、といった思いが働き、その犬に関心が湧く。 まだ春といっても寒さを感じるときにこうした動物の姿を見ると、犬に近い人間としては、 なんとかしてやりたくなってくる。 どうしたらいいのか、といってどうしようもできない自分に淋しさを感じる。 どういうわけでこうなったのかはさておいて、これまでなんとか生きてきたということは、 これからもこの調子で生きいけるであろうというかすかな望みをもつことができる。 もちろん、普通の犬とは違って、生きるのが難しいであろうことについては同情したくなってくる。 何にも手伝うことはできないけれど陰ながら見守っているからがんばれ、と応援したくなる。 人間の立場から犬を見ているからこうなるのであって、盲犬にしてみれば、そんなこといっこうに気にしていない。 それはこちら側の一方的で傲慢な思いこみであって、犬は自然と戯れ、自然からの偉大な贈り物を満喫している。 同情なんていらない、自由気ままに生きる、と潔く運命を受け入れて犬の仲間と愉しんでいるのだ。 この痛みは健康な犬にはわからない甘美な痛みかもしれないんだぜ。 歓喜に至る絶望の痛み。 昆虫に生まれたら昆虫の見え方しか知らない。 別に不幸でもなんでもない。 夜空が年齢を重ねるにしたがって美しく見えるようになるのは不思議だ。 幼い頃には夜空がない。 人間は、いろいろな規則やしがらみに縛られて、自由なようでいて案外不自由である。 ああ人間に生まれなくて良かった、と犬の方ではせいせいしているかもしれない。 生き物は個体として必死になって生きているのであって、他人からはうかがい知れないそれぞれの事情がある。 自然界において生物は、よりよく生きやすいように最大限のエネルギーを費やしてサバイバルに生きている。 耳が聞こえない鬼城であるからこそ身に沁みて感じ、盲犬によせる眼差しは哀しく優しい。 鬼城でしか捉え得ない弱小者への視点をもつ格調の高い純粋な句は、読者の心を激しくゆさぶる。 眠るようにしている。 特別集中力をつけたいときには眠るにかぎる。 高校の学年末試験は、終わったら3日後には単位認定の評価を出さなければいけないので、 考査最終日の最後の時間に当たったら悲惨になる。 採点だけは、前もって準備するというわけにはいかないからだ。 クレペリン検査を思い出す。 自動車学校の入校式でこのクレペリン検査をさせられたときに、足し算の最後までいったのに 時間が余った私は、あれっ時間がもったいないじゃんと思って、下の行まで計算していって、 適当にしゃかしゃか足し算をしていった。 だって、時間が余った時の対応については説明を受けていない。 心理学を勉強して定形曲線を知っていたので、正常に近く、しかも霍乱要素を加えながら終了した。 どんな判定結果がでたのか非常に興味をもった。 すると助手席に忘れられたカルテの 心理判定欄には、「指導によって天才的に力を発揮する。 指導によってはナメラレル。 」とあった。 睡眠時間によって、明らかに集中力に差が出てくる。 たっぷり眠れば、単純作業でもゴールまで全力疾走できる。 そのようなわけで早めに寝床に入り、やらねばならないことをすっかり忘れてにっこり笑ってお休みする。 何をするにしても嬉しくてたまらないけれど、眠るときはまた格別、いろいろ想像をしながらわくわくして眠る。 健康で若いので、眠れないということはない。 やらねばならないことがいろいろあって眠れないだけだ。 できれば毎日たっぷりと睡眠をとりたい。 と願っているのだけれど、つい時間が経ってしまう。 あれやこれやとやりたいことがいっぱいあるので、眠るのが惜しいということもある。 ほんとうに1日が24時間しかないのがうらめしい。 あと1時間増えたら何をしたいかというと、睡眠に当てたい。 裏返せば、潜在的に常時1時間ほど睡眠時間が足りないという感覚があるのだろうか。 誰しも寝ているときぐらいは、幸せな気分になってこの世を自分の思い通りにしたいという願いをもつ。 弘子の場合、エジプトの女王様だった、というわけだ。 朝寝朝酒朝湯の小原庄助さんのごとく、と比べればわかるように飛び切りゴージャスな気分が加味される。 エジプトを舞台にした映画を観ると、天蓋のうすいヴェールが風にゆられてロマンティックだ。 エジプトの女王様といえば、楊貴妃と並び称される絶世の美女で、ギリシャ語やエジプト語をはじめとして 何か国語をも自由自在に操る文句なしに知性の高い女性、「クレオパトラ」を思い浮かべるであろう。 彼女は機知にも長け、軍事・政治面に非凡な指導力を発揮するマルチな才女でもあったらしい。 どこまでほんとうかわかったものではないけれど、かなり信ぴょう性の高い歴史家プルタルコスの記録にはこうある。 「彼女の美貌はそれほどのものではなかった。 しかし、 彼女の会話の巧みさは天才的で、魂からにじみでる 言葉の魅力には抗えないものがあった。 しかも優雅な身のこなしにあらわれる色香には独特の魔力があった。 彼女の声は、囀るように琴線を弾き、聞く者をうっとりさせずにはいられない」。 プトレマイオス家の王宮で、ローマ帝国の事実上の独裁者カエサルとクレオパトラは、運命的な出会いをした。 ギリシャ商人の絨毯の中からするするっと転がりでるようにしてカエサルの目の前に現れたのだ。 その夜が彼女の人生のクライマックスで、そのときのことを想像しながら眠れば最高。 さぞかし目ざめは爽やか、頭脳明晰、エジプトの太陽さえも味方するような高揚とした気分であったろう。 普通は座敷に飾られる。 徳川ゆかりの尾張地方は、見栄を張って豪華な結婚式を挙げるので有名であるが、 3月3日のお雛さまも5段どころかさらに2段多い7段を飾って精一杯の大見栄を張る。 男の子なら端午の節句、女の子なら雛祭りまで、実家で面倒をみる嫁入り道具のひとつとされている。 毎年この頃になると徳川家に伝わる豪華な雛人形が徳川美術館で公開される。 ため息が出るほど上品なお雛さまや細かく念入りに細工をされた調度品が一挙に並べられる。 座敷に飾るお雛さまが豪華であればあるほど、まるで徳川家の末裔のような気分になってくる。 お正月が過ぎてほっとするまもなく早々と奥の方に仕舞われていた桐の箱を持ち出してきて、 雛壇を組み立て、大事に包まれている白い花紙をほぐして雛人形を丁寧に壇上に飾ることになる。 年に1度お気に入りのお雛さまに逢えるとほっとする。 お顔が優しくて気品がある。 雛人形は、娘のためというより、母親が楽しむためのものではなかろうか。 子育てというのは忙しいもので、生まれたその日から1日も休みがないてんてこ舞いの日がつづく。 忙しいからといって決して辛くはなく、むしろこれからの可能性に賭けて歓びに満ちたものである。 その忙しさにかまけて忘れている精神的なゆとりや豊かな情緒をとりもどすためにあるように思える。 雛飾りの前で遊んでいる娘を見て、母親としておおいに自己満足に耽ることができる。 遊んでいる当の娘はまだ小さいので、何がなんだかまるでわかっていないだろう。 お兄ちゃんは、右大臣や左大臣の刀や矢が欲しくて親の目を盗んで手に入れどこかへ隠したり、 オルゴールを鳴らして遊んでいるうちはまだいいけれど、そのうち落書きをして困らせる。 新しい妹ができ、親は娘の方にすっかり気をとられているので、兄としてはまったく面白くないのだ。 さわっちゃいけませんよ、といわれても、人形の位置を変えたり、御所車を動かしたりしたくなる。 そのときは大人しくしていようと思うのだろうけれど、妹が気に入らない。 妹に悪戯をするわけにもいかず、 自然に雛人形に矛先が向かう。 お兄ちゃんの淋しさがわからないではない。 いじらしいくらい。 言って聞かせてもこういうことはどうしようもないので、お兄ちゃんにはたっぷり愛情をそそぐしかない。 3月3日を過ぎたら直ぐに片付けるということになっており、娘のためならば喜んで親として骨を折る。 片付けが終わるとほどなくして、今度は鯉のぼりが立てられることになる。 すねていたお兄ちゃんの顔がようやく輝きだす。 しかし、確かにもう天道虫は、飛んでいる。 2、3日前、同僚と研究室で話をしていると、開いている南窓から虫が入ってきて窓ガラスに留まった。 おやっと思って目を近づけると天道虫であった。 鮮やかな赤に黒い星が浮きあがっていた。 部屋は2階にあり、こんなに高く飛ぶことができるのかとそれにも驚いた。 何もかも初見の時期が早まっている。 たんぽぽや土筆が見られたのも例年より1か月以上早いそうだ。 ツバメもすでに沖縄を通過したそうだから、本州に飛来するのも時間の問題だ。 掲句には、「八月十五日終戦」の前書きがあり、「昭和二十年八月、米軍の本土上陸に備へ、 対戦車自爆隊の一員として、千葉県上総湊(かずさみなと)の兵舎にあり」とある。 解説を読むとさらに詳しく、作者は終戦の1か月ほど前に召集され、 爆雷を背負って敵の戦車の下へ飛び込むという訓練を重ねていて、終戦を迎えた、と記されている。 信じられないようなあんな馬鹿げた時代に生きていなくて良かったとつくづく思う。 戦争という大きなくくりに縛られていたとはいえ、人類の知恵というのが完全に抹消されてしまった。 しかし、今の平成21年もあと50年もしたら、そのときに生きている人も今の私たちと同じように、 あんな馬鹿げた時代に生きていなくて良かったと思うのだろうか。 それとも、50年の未来から見て羨ましいと思えるものが今の世の中に何かあるのだろうか。 戦後、今までの思想が崩壊して新しい価値観が創造された。 平成の今、世界経済が未曾有の危機にあって、これまでの価値観が崩れようとしている最中だ。 ここから、どんな魅力的な価値観が生まれようとしているのだろう。 インターネットの第三次革命の進行する中から見えてくる新しい光はどんな色をしているのだろう。 地球も氷河期とは逆の地殻変動の時期にきているのかもしれない。 崩壊の中から見えてくる怪物はどんな顔をしているのか、じっくり見てやろうと思う。 平凡な私である。 なんとか生き延びて50年後まで生きてその世界を見てみたいと切望する。 私とあなたの合言葉、細く長く100歳までいっしょに長生きしましょう。 これまでに見たことも聞いたこともないような良いことがきっと待っているはずだ。 それによってたちまちにして雪がふっているリアリティーの中にこの身が置かれ、 雪の中に放り出された生身に感じる雪の感覚が生々しく目覚めさせられる。 雪を感じるのに、文化・文明によって育てられてきた繊細な雪の形象の美しさがある。 その奥に忘れかかっていた動物的な雪に対する感覚を、遠い記憶の中から呼び覚まされる。 幼い頃に感じたであろう純粋で素朴な雪に対するあの感覚である。 「山鳩よ」という措辞によって山鳩の身になって雪を感じさせるという窓秋のマジックにかかってしまう。 山鳩が感じるであろうという状況に置くことによって、理性が感じるヴェールをはぎとって、 原初のレヴェルで感じるであろう雪に対する感動をよみがえさせられる。 山鳩は、カラスやスズメやツバメのように身近にいる鳥だ。 それでいて人間に一番馴染みがあり親しいのが山鳩であるから、感情移入しやすいといえる。 この魔法にかかってしまうのは、窓秋の意図せぬ結果であろうか。 それとも、用意周到に仕組まれた技巧なのだろうか。 レトリックの魔術師だ。 山鳩よまわりを見てごらん、雪がふっているよ、という山鳩への窓秋の呼びかけから、 いつのまにか、山鳩の目に映る雪を感じている窓秋の詠嘆になりかわり読んでしまう。 雪に感じる抒情は、そのときどきに置かれた個人の抒情を増幅して感じるように思える。 幼い頃にある日目覚めれば大雪がふっていたときのあの五感が忘れられないで残っていた。 今までずっと忘れていた記憶がずるずると手繰り寄せられる。 こんなことがあるものなのだ。 母が編んでくれた長くて広いマフラーを思い出す。 雪がふった日は、真知子巻きにして学校へ行った。 それから教室の椅子にくくりつけられた座布団も思い出した。 痩せて寒がりで、よく風邪をひいてひどい咳をしていたので、母は椅子用の座布団を作ってくれた。 それが、ずり落ちないようにと紐でくくりつけるようになっていて、その紐が毛糸で編まれていたのだった。 伊吹颪がきつくて、昔はよく雪がふった。 雪がふったら雪合戦で、手袋がびたびたになった。 いっきに雪の故郷の思い出が蘇った。 記憶の底の伊吹山はいつ見ても真っ白だった。

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司法試験に落ちたあとの人生について

記憶 の 中 で ずっと 二 人 は 生き て いける 歌詞

海ばかりでなく大地もいのちをはぐくむ。 木や草の実が落ちて、大地の体温に目覚め、種から根が生え芽が伸びる。 それは種に限ったことではなく、木の枝を折って大地に突き刺しておくだけで根が生え芽が伸びる。 切った切り口から水や栄養を吸収し、効率の良い根の組織が造られ、根になってゆくのである。 自然の力は神秘的で偉大である。 それを「八百万神見そなはす」と表現した。 それは、大きな発見であり、八百万神を確信する畏れおおい驚きでもある。 生きとし生けるものをあたたかくつつむベッドのような大地。 増えてほしくない雑草が生えて困っているときには、この単純な発見には至らない。 ところが、好きな馬酔木やクリスマスローズや秋名菊や螢袋やヒマラヤシャジンの こぼれ種やシュートが知らないうちに育っていて、ある日突然それに気づかされ感動する。 好きなものでないと感動しないし発見できない。 (なんと淋しいことか。 ) 好きであることによって、興味関心が及び、自然に気づきが行われ心が動く。 これが自然の謎を解く鍵になることは間違いない。 好きになるということは、 交通事故に遭うようなもので、出遭った人は幸か不幸か。 (その代償を払わねばならない。 ) 大地に根づいたさし木は、どんどん成長してみるみる親木と同じようになる。 どこでどうなるやも知れない未来は未知である。 しかし、さし木する価値はじゅうぶんにある。 いいなと思った枝はさし木する。 本で読んだ言葉や考えをさし木する。 すると、いつのまにかあたためられて知らないうちにいつかおおきく育っている。 自然に行われていることが、人間という宇宙の中でも行われる。 人間と自然は一体であり、同じ原理が働いていて、地球という大きないのちで繋がっている。 流動的に変化し動いており、今の時点では間違いとされていても、 未来においてはそれが正しくなるという可能性はじゅうぶんにあるということは歴史が証明している。 生存中はだれも見向きもしなかった説が、死後になって認められたりしている。 だったら、自分の信ずる道を歩んで行く生き方が潔い。 先日は8時間の練習に和気藹々と活力がみなぎり、まだこれからのびてゆくエネルギーを感じた。 みんな歌好きな連中が集まっているから、誰も音をあげずまだもの足りないという人もいたくらいである。 音楽馬鹿といっても言いすぎではないくらい、とり憑かれたようにのめりこみ音を楽しんでいる。 鳥でも歌でも俳句でも、良質の人たちに知らないうちに導かれ感化されてゆくのが自分でもわかる。 無理強いされるということもなく、自分の心地よい間をとりながら、次第に自分のカラーを創ってゆく。 あくまでも自分が主体であるから、自分の嗜好にそってどのようにでも芽を伸ばしてゆける。 この自由な感覚に遊べるのが良い。 それだけ包みこむ宇宙が広いということである。 こんなに自由気ままに行動していて違和感を感じさせないのは本当に懐が広い。 春もたけなわ、鳥たちが囀りいろんな音色やメロディーを奏でている。 鳥だけでなく、動植物たち万物の生きとし生けるものたちがこの世を謳歌して声を張りあげている。 ある鳥がひときわ絶叫して聞こえるというのは、人間の耳にそう聞こえるというだけで、 それぞれがこれが最高という声で絶叫しているように私には思える。 人間の耳は人間に聞き取りやすい音域しか聞こえない。 早い話がピアノを想定すれば良い。 しかし、人間の耳に聞こえない音があり、人間にとっては理解不能な旋律だってある。 人間の尺度でなにもかも切りとって見たり聞いたり触れていたりするけれど、理解が足りない。 及んでいない。 同じ人間同士でも、分かったつもりになっているだけで、実際はぜんぜん分かっていない。 分かったつもりになれるのは、愛というロマンティックな接着剤のおかげなのだ。 愛がなければ、広大な宇宙に投げだされ、ひとり孤独をかみしめる恐怖を味わうことになる。 つまり、私だってこうして文字を連ねて広大なネットの海に向かって精一杯絶叫しているのだ。 それが少しも空しさを感じないのは、 この絶叫の響きがどこかのだれかに確かに届いていることを知っているからだ。 それが毎日生きる糧になってエネルギーとなっている。 無から有が生じる創造のエネルギーは神だけの特権ではない。 神は死に、神の精霊は感じるものの中に生まれ、それは愛とよぶにふさわしい。 高級娼婦や貴族に扮する舞台の歌手が、あちらこちらに座る客を眺める視線に生々しさを感じたのである。 これは良いことでもある。 というのは、元タカラジェンヌの演出家が一番最初に指導したことは、 気高く歩きながら、客席のなかのこれぞという客の視線を捉えよ、というものであったからである。 視線が気になったとは、素晴らしいことではないか。 見ている客であるはずなのに見られているようで気恥ずかしさが感じられるとはなんと艶めかしいことか。 気品があったかどうかはわからないが、視線がちくちく刺さりそれだけ間近に感じどきどきはらはらだったのであろう。 プロと同じ舞台にあがる私たちは、度胸のあるセミプロなので客席の人たちの顔をしっかり見ている。 進む舞台の役割を演じつつ、その物語の中で、客席も舞台の一部として客を巻き込んでゆく。 オペラハウスのホール全体が、 歌手や演奏者や観客が一体感を感じ、感動に酔いしれる。 臨場感というのがあって、ひと目ぐるりと見回すことによってその場のなかに包みこんでしまう。 さて掲句。 観賞する視点と蝶の視点のふたつの角度からの読みが可能になる。 後者の方が面白い。 初蝶ということは、生まれたての蝶で、さなぎから殻を破り翅のすみずみにまでいのちをめぐらし、 初めて飛翔するときの蝶は、鳥とは違って親がそばにいて飛んで見せてくれるということもない。 すべてが自分ひとりの初体験になり、自分ひとりで決断して自分の力で翔ぶしかない。 このひとりだちは、神秘的であり奇蹟であり感動である。 すべて自分ひとりで宇宙を背負い宇宙にとびたつ。 なんの不思議もなく当たり前のように翔ぶことの神憑り。 その自然の偉大なエネルギーに触れる。 その蝶のまず最初の自己認識は、自分の身近にあって同じ呼吸やリズムを感じる影であったであろう。 その影の動きを見て、自らの飛翔を感じとり、優雅に舞う姿を認識して、影を友にして舞う。 だから、影は初めての肉親ともいうべきものとなり、自然にだいじになる。 そのうちひらひら飛んでいるうちに影に似ていてしかももっと美しい同類に出会うのである。 こうして種は保存される。 3月の20日から4月の5日くらいが日本の標準である。 終業式から始業式までの春休みが、学生ばかりか先生ものんびりできる時間となる。 もう今ごろは4月からの行き先が決まって、始まりの予感に胸震えている頃だろう。 進級や進学できてほっとする。 この期間に旅行をしたり、本を読んだり、さまざま開放感にひたる。 束縛を解かれた自由時間の過ごし方によって知らないうちにその人らしさが現れる。 千代子の子どもか、近所の子どもか、縄跳びをしている。 海外旅行とか家族旅行とか、友人同士の卒業旅行なども盛んになって華やかになってきた昨今、 その一方で、どこにも行かずにささやかな日々を過ごす子どもたちもいてのどかである。 子どもの世界というのは、どこにも旅行に行かなくたってこれで結構幸せで満たされているものなのだ。 テレビでは長期の休みになると、大げさに特集を組んだりするけれど、 そんなことをしなくたってじゅうぶん豊かな時間の過ごし方がある。 子どもの世界に忘れられない思い出としてどれだけ蓄積されてゆくのか、ということなのだ。 大人の価値観で決められるものではなく、無理のない子どもの時空間の広がりを促したい。 私の春休みは、花壇の手入れだった。 種を撒いたり、苗を買ってきて植えたりするのが楽しみだった。 父の車に乗せてもらって種屋さんに行って、母といっしょに花の種や苗を買う。 それから、本屋さんまで足を運ぶのも春休みの安らぎだった。 近くに本屋さんがなかったから、 月々配達される雑誌や本ではなく自分で選べる本屋さんまで自転車で行くのがわくわくする冒険だった。 教師の仕事をするようになって、再び春休みは児童・生徒と同じような気分を味わえる。 1年ごとに、あるいは不定期に転々と各学校を渡り歩くような身分になってからは春休みは複雑だ。 これだけ転戦していると、度胸もついてきて、なんとかなるさ、という気にもなってきた。 こういうはらはらどきどきも悪くない。 どんな出会いがあるのか、期待もするし不安にもなる。 その気持ちの緊張感が、びゅんびゅんと張りのある縄に現れており、意気揚々と縄を回し、 跳びはねている気分の高揚感がこれからの苦難も柔軟な適応力で乗り越えていけそうな勢いを感じさせる。 4月にはどんな運命が待ち受けているのだろうか。 心が浮き立つ。 春ですねえ。 寒さというのは、それだけでストレスになり、心まで閉ざしてしまうものなのである。 だんだんに心が雪のようにとけて水になると、からだじゅうに活力がみなぎってくる。 昔むかしのいのちをよびさましてくれる。 海に漂っていたいのちのみなもとの記憶がよみがえる。 冬ごもりしているあいだにあれこれ思いを巡らしていたことを行動に移しやすくなってくる。 思いから行動への道のりは、遠い。 けれども、ものの弾みがつきやすくなってくる。 がっちりとよろいかぶとに身をかためていたガードが、自然にほぐれ、無防備になってくる。 それが春なのであり、このときを逃してはなるまい。 人間の動物的勘が鈍くなってきているから注意しよう。 その前触れとして「前略」という言葉が象徴している。 春の予感に敏感になっている。 この先が問題なのである。 ここから文明の圧力がかかって思いを滞らせてしまうものである。 私なんかは、思慮分別が邪魔をして困っている。 猫になりたいと常々日々思っている。 苑子同様、「前略」と書いてそこから前に進まない。 にらめっこしてしまう。 そのうち、メランコリックとかロマンティックとかにうち沈んで没になってしまう。 春の宵というのは、そういう気分に調和して、それが日本文化の湿った基調を成している。 それに埋没するのを良しとするのか。 この時点において、苑子の限界はここにあったであろう。 その後、どうしたのであろう。 いつも興奮と喜びに満ちた自分を追い求めるためには、そこから一歩先に進まねばならないのだ。 自己防衛本能が働いて、ガラスの向こうの景色は魅力的なのはわかっているけれど、 ガラスを割ることができない。 そこである。 割ろうとするから、臆病になる。 もちろん、その感覚は正しくて、割るのではなく、ガラスは引けば良いのである。 こうした発想の転換によって、事態は展開してゆくのである。 そうやって、乗り越えて、新しい日々がはじまってゆく。 人生を愉しくするためには、頭をつかわなくっちゃね。 機転を利かせると急展開する。 打てば響く、素敵な貴方です。 理性で考えれば、だんだん光に満ちてくるにしたがい白い花が光に紛れてゆくよりも、 しだいに光が消えて闇に沈んでゆく白さの方がくっきり印象深く見えてくるのは確かである。 当たり前のことであるけれど、それが雪柳を見ている播水の発見であって感動であるから真の俳句となる。 ささいなことで感動できるということが素晴らしく、日々新たなるエネルギーの源、活力になる。 はるかに遠いかなたに理想郷があるのではなく、身近なところに青い鳥は飛んでいる。 毎日同じことの繰り返しではなく、宇宙は成長しており、地球も絶えず成長している。 水の惑星は変化しつづけている。 その気づきは感動につながっている。 感動にもとずくことが大切で、生きているという胎動を感じるか否かで句が生きてくる。 俳句を詠むことは、自己の捉える哲学や宗教・倫理観にいつのまにかかかわってくる。 どれが良いか、悪いかではなく、成長の過程ということで捉え、そのときに感動(心)があるのか、ということだ。 自己に芽生える感情やイメージや思考に基づいていなければ、それは単なる文字の羅列に過ぎない。 だから、上手い俳句には魅力がない。 小賢しいばっかりで心がないからだ。 年季の入った俳人でも、人によりけりである。 生きている感動があるのかどうかで区別がつく。 手馴れた手つきで五七五に乗せたって、ちっとも面白くない。 面白いことをめざしている俳句もさらになんだか技巧に走っていて鼻につく。 まったくの素人、下手なのが、なんのてらいもなく平気で作った句に、 本当のよろこび、人間的なふくらみが感じられる。 ここでジレンマに陥ってしまう。 コマーシャリズムに乗ると、知らずにそのおおきな渦に呑み込まれてしまう。 なかなかそういうことに気づけない。 揉まれて洗練されたように思いこまされる。 俳句はつまり、人生の生き方そのものに深くかかわってくる。 価値観の相違がはっきり露呈される。 うまくいかないかもしれないし、どうなるかわからない日々を、冒険して、挑戦する。 不安や勇気がいたるところで顔を出し、その表情を掬い取ってゆくところにドラマがあり、 喜怒哀楽が生まれてくる。 それが生きいきとした生活であり、生々しい質感のある豊かさに繋がる。 激情的でドラマティックに思えるかもしれないのは、対決姿勢の緊張する生き方から発生している。 船首でまともな風を受けながら吹き飛ばされそうでしがみついている。 興奮してくるでしょ。 同じことをしていても、私だったらそのような感覚で受けとめるということになる。 思考、想像力、感情。 これらが複雑に入り組んで、周りの状況を切りとり認識する。 俳句とは、その認識の結果なのだ。 面白い俳句とは、その表現に生きている真実を感じられるか、ということになる。 俳句を読めば、その人となりが見えてくる。 こうして老いたいものだ。 人の痛みのわかること、つまり思いやりの心を育てることが人間としての究極だから。 何も耳に聞こえて来ないからといって、人は何もものを言っていないということではない。 言葉にすることのできる人は、恵まれている人であり、だから詩人は尊敬される。 世の中には、言葉にしたくても理由があってできない人、何かあるのはわかるのだけれど どう表現したらいいのかわからない人、あるのだけれどそれすら気づくことのできない人々にあふれており、 言葉にすることのできるのは氷山の頂なのである。 その下には、海に隠れて莫大な思いが積み重ねられている。 ふともらしたつぶやきのその下にこめられている疼きの思いをどれだけ想像して感じられるかによって、 人は連帯することができ、かろうじて心の交流がはかられ、それによって癒されたり救われたりする。 人を理解することができるのは、その人の中にある自分を鏡のように見出すからであり、 その鏡が霞がかかったように曇っていては、なかなか自分を見つけ出せない。 自分の中の鏡と相手の中にある鏡がぴかぴかに磨かれていることが必要で、 合わせ鏡のようにぴったり合ったときに、音叉が共鳴するように喜び感動する。 人間は、それぞれに限りない可能性を秘めた存在であるということは、 はかりしれないほどの大きさを秘めているということであり、へたをすれば、 広大な宇宙に放り出されてもう二度と遭遇することのできない虚空に漂うことに なるやもしれないという恐怖と表裏一体をなす。 だから、ことあるごとに暗黒の孤独を思い知らされ、奈落に落ちそうになりぞっとするのである。 気を許し悲観的になると、すぐ強力なブラックホールに呑み込まれそうになる。 積極的に、あるいは楽観的になるのには、エネルギーがいる。 男と女が惹かれあうのは、本質的にお互いにないものを求め合うからであり、 分かり合えるというのは、人間としての感覚に共通点を見出せることに起因する。 分かり合える部分で安らぎを得て、分かり合えない部分で強烈に惹かれ合う。 永久に分かり合えないものであるのにもかかわらず、分かり合えるかもしれないと思うところに 神秘的なるものが存在し、だから男と女は浪漫を感じ楽観的に生きていられる。 この世に異性がいるおかげで、愉しく暮らせるのである。 「朧」という語感は、春の夜の情緒をさし、ものの輪郭がはっきりしなくなってきているけれど、 その核心にはなんとなくやわらかくてあたたかい心がこもっておりふわふわ生きている感じがする。 愛というぷよぷよとした感情が現実のイメージの真ん中にあり、時の風化によってあらわになってくる。 確かに現実に起きているもろもろのことが、実際本当のことであるにもかかわらず、時の発酵により、 なんだか夢でも見ているようにうっとりとして、はっきりとした記憶が喪失してうろ覚え状態になってくる。 自分とは関わりのない歴史の出来事を無理やり暗記してテストが終わったらすぐに忘れてしまうときのように、 残念なことに、自分におおいに関わり、人生に深く刻まれた出来事であるのもかかわらず、 過ぎ去ってみれば朧に霞んでしまうのである。 悲劇のような喜劇のような。 悲しみという、忘れようとしてなかなか忘れられない負の遺産さえ、こうなのである。 喜びや感動、それらもまた同じ憂き目にあう。 時間というのは、まさしく誰にでも平等に与えられ、 良くも悪くも残酷にも、生まれたとたんに死へ向かって冷ややかに刻(とき)を刻みはじめる。 日常の仕事をせっせと処理する「時計係」は左脳にあり、記憶は海馬に蓄積され、記憶にないということは、 当人にとって存在しないと同じことになり、逆に、覚えているということは、存在しているということの証しになる。 これで、覚えていたり感じていられるということの大切さが、逆説的に鮮明になってくる。 あの日々の感動をときどき思い出す。 あのときの感動は真実である、と実感することが生きていることに繋がり、 ときどきふりかえって思いを新たにすることには意味があり、あのときの感動によって今があることを確かめられる。 忘れかけては思い出し、忘れかけては思い出す。 そうした行為が、時間という宇宙の法則に楯突くことになる。 1年が年ごとに速くなり、こんなに美しくなってきているというのに、 死がどんどん迫ってきて、しかも過去が忘却のかなたに消えかかろうとしてる。 文豪ゲーテは「時よ止まれ、お前はあまりに美しいから」と言った。 ゲーテの心境が非常によくわかる。 悪魔と契約書を交わすこともできないから、あれこれ抵抗を試みている。 物の核に心があり、その情景を俳句に書きとめておく。 何度も思い出しては思いを新たにする。 年がら年中幸せな気分で過ごすコツは、ここにもある。 愛する者と共に生きたこの世のすべてのものが遺品と思える、とはなんとすさまじい現世であろう。 どこへ行っても、妻の影を感じ、妻の手が触ったように、息がかかったように思えてくる。 妻が死んでしまっても、妻が生きているのと変わらないくらいのこの世を実感している。 ただ妻がいないだけで、まるで妻が生きているようにこの世が現存する。 これは、幸せなことだと思える(とまず仮定してみる)。 妻があの世に旅立ったという意識があり、 しかも、この世に妻の息吹が感じられれば、幾分淋しさもやわらぐのではないか。 妻に先立たれると、後を追っていきたくなるというではないか。 妻としては、後を追ってこられるよりも、生きてこの世を楽しんでほしいと願うものである。 ひとり残されて生きるのは淋しいに違いないであろうが、妻の遺品がそこかしこにあり、 生身の妻がするりと抜けて、またときどき顔を見せてくれそうな生き心地で暮らしている。 こういう状態が好ましい(と仮定したい)。 妻もろともにこの世にぽっかり空いた喪失感にうちひしがれるのは、 死にながら生きているようなもので、生きた心地がしない。 想像するだに苦しくなってくる。 もともと妻とは、空気のようなものというではないか。 いてもいなくてもかわらないような、それでいておおいに助け合って支え合っていた。 その妻がいなくなったとき、どのように克服していけばよいのだろうか。 彼岸桜が見事に咲いて、春爛漫の豪華な華やぎにある。 もしも散ったら、と想像するようなものである。 爛漫にあるときは爛漫に酔い、散ったら散ったでその散る儚さに酔う。 それが精一杯この世を謳歌することになるのである。 魂は永遠に生きているということが救いになり、そう考えることによってのみ癒される。 妻は死に、しかし妻の魂は春星のように遺品として残って在るように感じられるのである。 それを今日、ネットを見ていて、突然に目に飛び込んできて知った。 ちょうど2日前に彼の近所を通りがかり、今頃どうしているのかなあと思いを馳せたばかりであった。 数年前にお会いして、鳥の写真を見せていただき、また鳥についてのお話をさせていただいた。 とても優しい方で、こちらの思い以上にいつも親切にしていただいた。 息が詰まりそうになる。 脳幹内出血に倒れ、翌日には天国に旅立たれてしまったようである。 あまりにも不慮の出来事で、家族の方々もまだ冷静に受けとめられず、ネットに知らせることが遅れたという。 ネットを通して知り合うことができた素敵な鳥仲間であった。 生きている以上死ぬのは当たり前なんだけれど、いつ死んでもいいように、 悔いを残さないように生きていかなければ、と思った。 いっぱいやりたいことがあったに違いない。 ほんとにかくれんぼのようにふっといなくなって、またふっと顔を見せてくれそうな、そんな亡くなり方だ。 ネットで知り合った仲間の訃報はこれがはじめて。 彼の死をしっかり受けとめ、彼から学んだことをこれから生かしていくことが、 早すぎる彼の死に報いることになろう。 今年の彼岸桜は彼のために咲いたのだった。 というのは、校庭の桜は普通ソメイヨシノが植えられているので、校庭の蕾はいつまでも固くのんびりしてしまう。 終業式まであわただしく過ごし桜を見るゆとりもなく、春休みを迎えてやっと人心地になる。 すると彼岸花と同じように、時期が来れば待ってましたとばかりに律儀に咲く彼岸桜の見ごろを失するのである。 桜の名所である木曽川堤の桜は、誰が植えたのであろうか治水のためでもあったであろう、 江戸時代から咲きつづけ、それに加えて後世の人々が賛同延長させ、その結果老若多品種が植えられている。 複雑多岐に延々と植えられており、桜の開花時期が早くから始まり遅くまで咲いて楽しませ飽きることがない。 木曽川に沿って、ところどころ途切れながらも結局下流から上流まで桜は植えられている。 春休みになり、ようやく仕事から解放されて木曽川の桜でも見に行こうという気になって行ってみるといつも驚く。 春休みになってからでは遅い。 すでに桜は開花している。 それどころか満開だ。 推察してみると、月曜日あたりにほころびはじめ、火曜日には2分、水曜日には3分、木曜日には5分咲き、 というスピードで、金曜日の彼岸には彼岸桜の満開という具合に、急いで彼岸に間に合わせたのかもしれない。 今年の桜は、道に迷った遠出の帰り、いつのまにか木曽川堤に出くわして、偶然夕方に桜が満開なのであった。 思ってもみなかった桜に出会い、無事に帰ってこられてほっとしたところへこの桜の感動は大きかった。 桜との出会いが奇跡的、といったドラマを感じさせる。 毎年いつものように咲いているのであるが、受けとめる方の意識の持ちようで感動がぐっと深められる。 桜を見ようと期待して、やっぱり綺麗だった、というのと、思ってもみなかった桜に驚きの美しさとはまるで違う。 運命的な出会い、奇跡の出会い、というのはこういうことをいうのであろう。 突然に目の前に現れ、奪ってしまう。 竜巻のように予期せぬ現れ方で、圧倒的な力で根こそぎ奪いとる。 「生き生きとしてだんだんに」というのは、年齢を重ねて桜を見る目が生き生きとして深まってくるということもある。 桜を見て感じる思いが、複雑になり、感慨深くなってだんだんに進化を遂げるように思える。 だから、芸術というのは果てしがない。 これは生きれば生きるほどに素晴らしい桜に出会えるということになる。 感動する心は、老化しない。 スパイラルに上昇してゆく。 考えてみれば、男にとってみれば女とは神秘的であろうし、女にとっては男は不思議な存在である。 女と女の同姓であれば、なんとなく分かりあえ、分かりあえるぶんだけわからない部分がわかる。 ところが、男と女の異性というのは、人間であるというということで大きなくくりでこうなんじゃないかな、 とおおまかにとらえてとらえどころがなく想像の域がでない。 どこで、理解のわくをひっかけてゆくのかというと、自分を中心にして考えるしかないから、 だから、どこまでがわかるのかどこまでわかっていないのか、それさえもわからない。 となると、男と女が分かりあえそうなという美しい幻想をどれだけ抱けるのかということになってくる。 届かないとわかっていながら相手を求める手を出しつつ、出さざるをえない心境になる。 その間に存在する隔たりを、春の川とした漱石はやはり文学的センスがある。 人を救う癒しの水が、個人の中に流れていて、男と女の間には、春の川が流れている。 届かない手を川に浸しつつ、その川の水を通して繋がっている感覚に望みを託す。 その淡い期待を、春の川によって繋がれている感覚に表し、巧みだ。 春の川に映る向こう側の景色は、川によって分断されたこちら側の景色とはまったく違う。 こちらから見ると夢や希望に充ちた景色に見え、こちら側と変わらないだろうけれどまるで違った桃源郷のように見える。 その中にいる男であるから、何から何までオーラにくるまれてしびれるような感覚がつきまとう。 分かりあえないことを前提にして、その橋渡しに春の川が流れているというのが、 男と女の心理を描いて巧みであった小説家漱石の感慨であるところにこの句の醍醐味がある。 春の川とは、雪解け水のひんやりとして清らかな電解質になって、正と負のイオンの移動があって、 男と女のプラスとマイナスが引き合うという奇跡的なイオン結合が起こり、それを感じられるかどうか。 そういう春の川を感じられるかどうか、だれでもというわけではなく、春の川を感じさせない場合もある。 私と貴方の間に春の川が流れている。 それは、悲劇という意味ではなく、どちらかといえば喜劇であり、 春の川を通して繋がるなんて、とても素敵に思えるんだけれど、どうかしら。 いつもは乱れた書架をなんとかしなければという気になって、その書架を目にするたびにいらっとする。 ところが、春愁とは、春のもの思いに気をとられる。 今まで気にしていなかったことが突如気になりだして、どうにもならないことにくよくよしだすのである。 身近な生活から、春になって行動範囲が広がり、別れや出会いを経験し、とりまく自然が動きだし、 そこで自分自身へのゆさぶりが感じられてくるのである。 卵から殻を破って成長を遂げるように、人間も目に見えない卵の殻を破りたいと願う。 人間には、そういう目に見えた節目がないから、まさかそういうことだとは思えず、 何やらわけがわからないままもやもやとして内から湧き起こる成長のエネルギーに悶々とする。 春になってからの愁いとは、冬の間に封印されていた思いが一気に噴きでて雲をつかむような気分。 まわりは春になり、華やいでいる。 それに合わせて、人間も華やいで成長したいのだ。 いっしょに春を満喫すればいいのだ。 それを、なんだかんだと既成概念が邪魔をして、こうでなければと覆いをするから鬱屈してしまう。 書架の乱れを気にしないで、春を愉しもうではないか。 春なのだ。 人間にも春が訪れている。 だれかいっしょに踊って歌ってくれる人はいないか。 書架が乱れているというのは、頻繁に本を出し入れしたり、本を重ねて積み上げているからなのであって、 書架を飾りにしている人は整然としている。 読書人の書架は乱れているものと思うのだが、どうでしょう。 そういう人は、書斎に閉じこもっていないで、戸外に出た方が良い。 青春時代には、メランコリーやセンティメンタルに憧れてもいたりしていたが、実際にそうなってみると、 生産性がないばかりか、すべてが停滞するので、これは苦しい。 どうどう巡りになって負のスパイラルに陥る。 アンニュイも似ている。 病気でもない限り、時間がもったいない。 といわれても、まあどうしようもなくぼうーっとする気分が、春愁なんでしょうけれど。 自転車に乗り、近くの公園や川縁にでかけ、春の訪れを肌に感じてのんびり時間を過ごす。 ひとりベンチに腰掛けて、読みかけの本をとりだしてゆっくり読みはじめる。 誰にも邪魔されることなく自然の中で読書するのも、開放的な気分になり、室内とは違った理解がすすむ。 わざわざ本を読みに来たのではなく、野外で本を読んだり、鳥を見たり聞いたり、風に吹かれたり、 木々の芽のふくらんで、川の水嵩がふえてくるのを感じるために、自然の中に身を置きにきたのだ。 だから、蝶が飛んで来れば、蝶がひらひら舞う様子にしばらく見とれてしまう。 蝶が見えなくなるまでずっと見つづけて、遠くに行ってしまったらまた本を読みはじめる。 まったく焦ることなく、読みかけのページに目を落とし、さっきまで読んでいた行を探すことになる。 蝶が飛んでいた時間の経過があるぶんだけ、行が飛んでしまうことになるとは不思議だ。 その思いつきに合点したからこそ句になるのだ。 そのあたりが詠み手と受け手の双方向の暗黙の了解事項になる。 本の中の虚構の世界から蝶を追う現実世界への移行がなめらかに行われ、 蝶が消えて本の中の想像世界へとまたスムーズに返って行く。 現実と虚構の往来を行の飛んだことで表し、それぞれの世界への深い没入ぶりが伺える。 蝶を追う時間も読書している時間も連続して透明で静かな時間が流れており、滞っていない。 自然の流れの中で、時間がなめらかに経過して、浩山人の生きている時間が溶け合っている。 現実と読書が両輪となってより深められていくような人生の充実を感じさせる。 自然という無限の情報を取り入れながら、人間の叡智を読書から得る。 浩山人という俳人は、はかりしれない深みを内に秘めているに違いない。 光の当たり具合で多少違うところもあるかもしれないけれど。 その基準に従い辛夷を見ると、近くのどこかにあるだろう木蓮のつぼみを想像し、 今ごろうずうずしているだろうな、とか、小指の爪ぐらいか鳥の嘴か、などと中りをつける。 やがて辛夷が咲きはじめると、きっと木蓮のつぼみはこぶし(拳)ぐらいにふくらんでいるはずだ、と連動する。 辛夷から木蓮、そして桜へとずるずるっとひとつながりになって百花繚乱の春へと突入してゆく。 花の少ない時期に咲く白い辛夷と木蓮は、桜の春を呼び出すのにふさわしく、 辛夷は純白、木蓮は乳白、桜はうす桃白と、少しずつ艶めいて春本番のパステルカラーへとつなげる。 図鑑には、辛夷はモクレン科の落葉高木で、木蓮はモクレン科の落葉低木とある。 住宅地では、ほとんど木蓮が植えられ、たまに見かける辛夷は木蓮よりも背が低い。 植樹されて日が浅いため。 まず最初に木蓮が人気を集め、その後紫木蓮、辛夷、しで辛夷へと移っていったようである。 山に行くと記述どおり、ほとんど白い花は辛夷になり、背の高い辛夷が白い雲がかかったように咲く。 辛夷は、見るからに野性的で清楚だ。 木蓮には、豪華なあでやかさがあり、人の手が入った美意識がある。 だから、街の景観に木蓮がしっくり合い、春の訪れを告げる花木に選ばれて庭や街路樹に好んで植えられるのだろう。 ふっとこぼれたため息のように小さな小指の爪ほどの白いつぼみが、見るたびに大きくなり、 自然の驚異そのままに、ぐんぐん生命力をかたちにして、まるで春の妖精がほほえんでいるようにふくらむ。 そのうちにいつ咲くんだろうかと日に日に待ち遠しくなってくる。 じれったい。 梅や桜の開花は国民的関心事になっているけれど、木蓮はまだそれほどでもなさそうだ。 花の好きな人にはたまらない魅力があり、見逃せないけれど、どうも好き嫌いが分かれる。 桜と比べるといやおうなくその理由がクローズアップされ、国民的に愛される桜とはだいぶ違う木蓮らしさがわかる。 木蓮を実際に近くに見るときには、それほどでもなく、遠くに見つけたときにその美しさは煌めく 木蓮は、桜のように近くで愛でるというより、少し距離をおいて遠くから眺めるのに適している。 遠くから見ると可愛らしく、春なのにまるで雪国の吹雪を思わせるように街にぼうっと異次元を現出させる。 もう帰っては来ない真冬の吹雪を幻想的に見るような、懐かしさといとおしさに胸がさわぐ。 春に雪のようなはかなさを木蓮に見る。 近くで見ると木蓮は、咲きはじめるときがピークのデリケートな女性の素肌のようなのだ。 疲れやすい。 日に日に老いてゆく人肌のように、みるみる残酷に老醜をさらしながらだらしなく散ってゆく。 老いさらばえるなかに美しさは見いだせないものだろうか。 老いても生きているのは美しいはずである。 正雅は、その崩れた中に新しい美を見いだそうと新しい視点を提案しているように思える。 あたたかい雨がふり草木が芽を噴きだす。 木曽川、揖斐川、安濃川、雲出川、金剛川をめぐり伊勢湾の干潟の鳥を観察した。 自然が豊かに残っているところに野鳥が飛ぶ。 野鳥を見るのが好きなのか、野鳥のいる自然が好きなのか、きっとその両方なのだろう。 金曜にあたたかい雨がふり、土曜の昼から雨があがり、日曜日は絶好の鳥日和となった。 幾分風が強いものの晴れわたり、寒くて凍える季節は過ぎてやっとあたたかい春を迎えた。 川面や海面には光が満ちてきらきら耀き、春のエネルギーが海から盛りあがってふくらんでいる。 木の芽が噴きはじめうっすらと黄緑がかってきている木があるものの、まだほとんど裸木だ。 その下の河原の葦や葎も枯れ葉や枯れ枝を晒して、一面乾いた灰白色に殺伐としている。 遠くを見やれば枯れ野になっているけれど、足元を見ればその枯れ草の根元から緑の芽が萌えている。 まだ動き出したばかりで隠れ場所がないので、この季節の渡り鳥は小さくてもよく見つけられる。 何十年のキャリアを持つベテラン集団の目による鳥合わせの結果、54種類を確認した。 珍しいところでは、セグロカモメの幼鳥。 4年かけて成長になる1年目の背黒だ。 それから、ミヤコドリ。 ミヤコドリというと、ユリカモメのことだとばっかり思っていたら間違っていた。 歌の世界と現実の世界は違っている。 今回両方を見る機会があってようやく気づいたのであった。 実際のミヤコドリの方が綺麗だ。 嘴と脚が赤く、特に嘴は血のように鮮やかな色をしている。 それから、スズガモの数万羽の群れ。 それから珊瑚の海の魚の群れに似た動きをする千鳥の舞。 一瞬にして一斉に向きを変えた瞬間一斉に姿が消え、次の瞬間真っ白に耀き姿を現す。 あたたかい風に吹かれて集団で群れ飛ぶ。 水鳥だから陸の鳥に比べて濡れても平気だろうけれど、 やっぱり雨がふっていたときには、元気よく飛べなかっただろう。 晴れれば、思いっきり羽を伸ばして風に向かって気持ちよく飛べる。 草木もきっと同じように、根から水分を吸収したあと気持ちよく葉を伸ばしているのではなかろうか。 子規は、これらのことを予見して、枯葎(かれむぐら)にあたたかい雨がふっているのを見ている。 いのちのうごめきに感動しながら、自らのいのちの胎動を受けとめている。 筒状の2枚貝で、指の太さの筒が20cmくらいある。 潮干狩りにアサリを採っているとばかり思っていたら、トンガ(唐鍬)で砂を削り穴を見つめていた。 面白いなあとしゃがみこんで覗いたら、白い粉をふり入れていた。 何ですか、と尋ねると塩であった。 さらに見つづけていると、穴からひゅんひゅんと飛び出すタイミングを見はからってその頭をつまみ、 ずるずるっと細長い貝を引っ張り出す。 すぽっと捕獲されてしまった貝はびっくり、だらりとした身を晒す。 曲想にリズムがあるように貝の大きさに合わせてぬめっとしたリズムを刻みながら頭を出したり引っ込めたりする。 ふりかけの塩を満ち潮かと騙された貝は、そうとも知らず用心深くちょっと頭を出してすぐ引っ込める。 1、2秒するとさらに様子を伺うように慎重にしかもさっきより高く頭を出してから安心したようにゆっくり沈む。 このあと調子をつけてずるずるっと背伸びして顔を出したところを、待ってましたとばかりに生け捕りにする。 貝の持つ固有のタイミングに合わせ、イチにの三でマテ貝を捕らえる。 海の波のリズムに似ている。 頭の伸びきったところを親指と人差し指でつまむようにして引くのがマテ貝採りの方法であるが、 名人の話によると、この指の押さえどころと押さえる力の入れ具合にコツがある。 貝筒がじゅうぶんに押さえられるだけの高さに飛び出たところをすかざずつまむことと 力を入れすぎてはやわらかい筒が潰れ、力が足りないとするするっと逃げられてしまう。 マテ貝採りの名人は、次々と成功しまたたくまにひと山の貝を採ってしまった。 見ているだけでも面白く、実際に採っている人はもっと面白いであろう。 それにこれを茹でてストーブの上で佃煮にすると病みつきになる旨さだそうで、 毎年この時期を楽しみにして1年を過ごすのだそうである。 鳥たちは、砂浜を歩きながら貝を探り当て、細長いくちばしで器用に突つき割って生で食べている。 もっとずっと見つづけていたかったのだけれど、干潮2時を過ぎると潮が満ちてくるので 風紋になっている数センチのぬかるみを選びながら沖に出て行った私は帰れなくなってしまう。 潮干狩りの用意をしてくれば良かった。 5,6個でもお土産に採りたかった。 干潟に野鳥を観察に来て、ミヤコドリを近くで観たいと潮が引いた沖に出てきたらマテ貝採りに遭遇した。 偶然に出会う面白い出来事というのは、なぜだろうか数倍興味を引き、印象に残る。 求めて目的に辿りつくのと、偶然に巡りあうのと、どうしてこうも受け取る感覚に違いが出てくるのであろうか。 全く予想もしていなかった新鮮な春の出会いになった。 中学校を卒業したあと、生まれて初めての勝負にでることになる。 いわゆる15の春だ。 揺れる思春期に一か八かの大きな不安を迎えるわけで、受験生ばかりか親もそわそわして落ち着かない。 梅が咲き終わり春一番が吹いてあたたかくなっても、受験生には高校入試が終わらない限り春は訪れない。 進路が決まるまでどっちつかずの白紙状態にあり、真っ白い地図の上にぽつんと定まらぬ影を落とす。 この時期、自分の行き先を求めて、日本国中の卒業生たちが日本のあちらこちらを彷徨(さまよ)うことになる。 翌日に試験を控える受験生たちは、布団の中に入ってからもなかなか寝つけぬ夜をすごしたであろう。 いつもより早めに目が覚め、いつもとは違った緊張感に、特別な日の朝が記憶されてゆく。 高校入試の朝をいまだに覚えている。 縁起を担いで朝からお弁当用のカツを揚げる匂いが充満していた。 なんだか懐かしい。 あんなに昔のことなのにビデオ撮りでもしたかのように脳裏に焼き付いている。 ひとりでバスに乗り、駅から歩き、いつもとはまるで違う受験会場に向かう。 慣れない電車に乗って遠くの街に出かける。 駅の改札口は学生服やセーラー服でごったがえしている。 最短距離がわからないせいでうろうろしているから実際の人数より多く感じられる。 しかも、通路を立ちふさぐように数人がかたまっているので、通勤の流れの邪魔になっている。 うろうろきょろきょろして落ち着かない挙動を示し、間違っていやしないだろうかと不安な顔が異様に映る。 しかし、当の受験生にとってはまわりが見えず、頭の中は受験会場のことだけで精一杯である。 試験会場に着いてしまえば、あとはヤルだけだから、かえって落ち着ける。 田舎育ちで街に出たことがないから、街を彷徨う感覚が一番不安であり、受験子の心理を言い当てている。 光のない真っ暗なトンネルをだれしも経験したというのに、行き先も決まり新しい生活が始まると、 不安でたまらなかったトンネルのことなどすっかり忘れてしまう。 人間ていい気なものだ。 12日は筆記試験、13日は面接。 合格発表は17日。 結果がでるまでの宙ぶらりんの真空状態3日間。 もやもやいらいらとして落ち着かない状態は長く感じられる。 ほどなくして決着がつく。 しかし、これで終わりではない。 これからも、また何度かこういう状態がつづき、 このトンネルを抜けながら、少しずつ成長を繰り返していくのだ。 まるで自分が春の渦潮の柱になったようにぐねぐねしなるように感じられ、春の真っ只中にいることを自覚した。 春の渦潮をダイナミックに捉え、自分の身体感覚にからめとってしまう画期的な技法だ。 春という季節が、ぐるぐる自分をとり巻いて、しかもその中心に確固とした自分を据えてみせる。 スケールの大きい自然に肉薄して、身震いする感動として繊細に感受している。 新興俳句の旗手、山口誓子。 清々しい汽笛に触発されて全身の細胞が蘇るような斬新さだ。 歌を歌っているときに同じような経験をする。 まさに総身は、音を発する楽器そのものになる。 歌いながら時を越え、作曲家の心の中で鳴り響いたであろう音楽を感じながら自ら奏で音楽になる。 歌いたい熱いエネルギーに突き動かされ、声帯という弦に息をふきかけることによって音を発し、 その声帯の音の振動が、伏せたお碗のようになっている頭蓋のてっぺんに達し、 雷が窓ガラスをびりびり響かせるように頭蓋を響かせ、頭蓋からはるかなる天上へと透明に発声される。 一番激しく振動しているのは頭頂部で、全身が共鳴箱になって細かくぴりぴり震えている。 弦と弓をしっかり張らないと音が出ないように、声帯をぴったり合わせないと張りのある声にはならない。 お輪を叩けば響くように、総身を適度に緊張させ操ることによって細かいビブラートがかかり、 たっぷりとした海面にさざめく光の反射のようにきらきら煌めく声になる。 発声すると、風車がからからまわるように声帯がコロコロまわる。 その煌めきが人々を魅了する。 海面に光が当たっているのと当たっていないのと、眩しさに違いがでてくるように、 原石を磨いたダイヤの輝きはオペラの声となって、この世に最も美しいメロディーを奏でる。 それは、本物のベルカント唱法を指導するボイストレーナーとの出会いにかかっている。 自らが苦労してベルカント唱法をマスターした方の方が、教え方もうまい。 他の歌唱法を知らなかったので、変な癖がついていなかったのが幸いして比較的早くマスターできた。 歌うのはこんなに楽しいものかと今まで経験したこともないような新しい世界がひらける。 ヴァイオリンを弾きこなすのには大変な歳月が必要とされるけれど、自分が楽器となって歌うのは、楽で楽しい。 最近は、耳を澄ませばオペラの声がテレビコマーシャルからも聞こえてくるようになってきた。 この歌声は聞けばすぐにわかる。 発声に無理がなくなめらかに透きとおりつやめいている。 この歌唱法はまだ一般的ではないけれど、もうあと50年もすればもう少し普及してくるように思う。 べルカントで歌うと高音域が楽に出るようになるから、音楽を聴きながらいっしょに口ずさめる。 街に流れる音楽がいっそう身近に感じられ、音楽が生活と密着してくる。 言葉が生きるそのもののように、言葉と音楽はなくてはならないものとなる。 「作者はこの句の出来る前から『恍惚』という語を何とかして一句の中でこなしたいと願っていたという。 又、『馬』も関心の深い素材で、『恍惚』という言葉への愛着と『馬』という実在への傾倒が、 ある日あるとき交叉して、一句を成したのである。 」 俳句ができあがるまでの過程がわかり面白い。 好きな言葉があり、それを熟成させて俳句を成す。 今まで意識してそのようにしたことはなかったけれど、考えてみれば俳句ができあがるまでには、 無意識にある言葉への愛着があり、それをじっくり育て、そしていつか実らせたいと願っているはずなのだ。 当たり前といえば、当たり前である。 純粋な魂は愛であり、愛は時間をかけて育てるものだから。 言葉の選択は厳しく行われており、私だったらそのようにはいわない、という線引きがある。 うまい表現というのがあるかもしれないけれど、自分の人生に引きつけたものであるかどうか、ということが、 やはり私にとっては気になるところだ。 いかに素晴らしくても、強化ガラスの向こう側の景色では、なんとも歯がゆい。 現実のこちら側で生きる五感を伴っていなければ、自分のものではない誰かに借りた服を着ているような気分になる。 結局、人には譲れない自分そのものの言葉の言い回しが頑固にある。 自分の呼吸そのものだ。 ひと目ひと目毛糸をひっかけ手で編む。 不揃いであったりするけれど、それがいいのだ。 この一瞬に隠された私だけの人生が詰まった句であることが私にとってオリジナルの宝物になる。 自分にとってしっくりこない言葉をつかえば、どうもぎくしゃくしてしっくりこなくなってしまう。 これは微妙だ。 俳句に限らず、普段の日常生活でも、難しい言葉や聞いて不愉快な言葉は自然に避けている。 反対に、自分の好きな言葉、聞いて気持ちがよくなる言葉をできるだけつかうようにしている。 といっても、あまり語彙が偏ってくるのもカラーが決まってしまうからとまた気をつかう。 気をつけているようでも、客観的に見たらどうも主観に傾いて青色がかっているように映るかもしれない。 好き嫌いがはっきりしている。 そして、何でも一番を決めたがる癖というのは、俳句を詠むのにも影響し、 これが知らずに役立っている。 というのは、表現しようとするとき、一番ぴたっとくるという言葉を自然に選ぼうとする。 一番を決める選択の苦楽を味わいながら、ある瞬間一分のすきもなくぴたっとはまる表現を見つけた場合、 自分という輪郭がくっきりと描ききれたような気がしてうっとりする。 自分を形づくる魂の彫刻家だ。 こういう経験を積み重ね、俳句を詠む楽しさがわかって病みつきになり、いつのまにやら抜け出られなくなる。 最近「花粉症」と「春愁」という言葉が気になってきた。 昔はこの言葉とは縁がないと思っていたけれどあにはからんや。 言葉にも個人の歴史があり、変遷がある。 どんな革命が起きてどのようにぬりかえられていくのか、自分ながら愉しみである。 そわそわして気ぜわしくなる。 辛夷は、青い空に映えて春を告げるにふさわしい花だ。 まだ山が眠っていて、木々は裸を晒しているのに、 四温が続いたある日いちはやく白い綿帽子をかぶせたように清楚な花を咲かせ、はっとさせられる。 山茱萸、土佐水木・日向水木や満作、ミモザの花も咲いてはいるが、「白」ではないし、 それより先に梅も椿も咲いているけれど、「空に咲く」といった感じではない。 ああでもない、こうでもないと考えて、感情よりも理の勝った歌の作りだ。 辛夷のあとに咲きはじめる白い花といえば、白木蓮そしてなんといっても桜だろう。 辛夷が咲く頃には、木蓮がくちばしのような白い蕾を日に日に膨らませつつあり、 みるみる風船のように大きくなって、今か今かと辛夷のあとの順番待ちをしているようになってくる。 木蓮が崩れはじめると、桜の出番。 ひかりを集めていっぱいの毛に覆われた猫の尻尾のような蕾が割れて、 黄緑の葉っぱを一枚のぞかせ飛び出る。 それから白い花びらを5.6枚、たよりなさそうにひらりとひろげる。 このふぞろいの細長いだ円の白い花びらに、なんとも奥ゆかしい野趣がある。 ひとつひとつなにもかもが違っていて、その咲き方の乱れようが掻き毟られるように淫らだ。 しかも上から見れば純白なのに、裏から見ると、うっすら紅色の筋が入って、実に淫らだ。 女の化身としての辛夷で、四手辛夷になると花魁のイメージになってくる。 それに比べると、白木蓮というのは大きくて、男の化身に思えてくる。 圧倒的に庭木に選ばれているのは白木蓮で、辛夷の方は相当マニアックな庭になってくる。 花水木は最近の流行で、どこの庭にも1本植えられているけれど、日本古来からある山法師となると珍しい。 辛夷は野性的で淫らで好きな花だ。 家の近所でも咲きはじめ、とうとう、といった感じになってきた。 良く見ると変わっているけれど、そしらぬふりして普通らしさを装っているところがたまらなく可愛い。 楚々として春を告げる花辛夷。 春は確実に抜き足差し足忍び足。 しとしとふっていたさっきまでの雨が消え、雲に隠れていた太陽が雲のすき間から光をこぼしやがて晴れてくる。 明るさを増すにつれ雨に洗われた景色が、時間の経過とともにしっとり眩しい光の国へと変わっていく。 雨から晴れへと生き活きと陽転する野の姿をとらえ、動きのあるエネルギッシュな句として瑞々しい。 ひと雨ごとに春を呼び、力強く草の萌芽を誘い、土中に棲む虫たちを眠りからゆさぶりさます。 雨のはじまりに出会うことが多い印象を受けるのは、傘をさすわずらわしさをよく覚えているからだろう。 雨の終わりに遭遇することも同じくらいにあるはずなのに、それはめったにお目にかかれない。 春雨との出会いを喜ぶ気持ちが強く、音もなく静かに消えいる別れ方があまりにも鮮やかだからだろうか。 雨音がしなくなってもうやんだかなと思って傘を傾げてみると細かい雨が顔に当たってまだふっている。 結局、傘をさしたままを通し、やんだことを知らないままに傘をたたむことになる。 ところが掲句のように、うす日がさしてくると、雨あがりがかろうじてわかるようになる。 目を凝らせば、雨に光があたって、銀色の細い絹針のような斜線が走っている。 これが雨雲に覆われて暗いと雨が見えない。 光がさしているから雨のあがるのがわかるのだ。 雨があがりそうでまだふっている、この嬉しいような淋しいような微妙な心のゆれが愉しい。 きっともう傘はさしていないだろう。 あがりはじめる雨は、ふられてもぬれないし、この春雨は心を潤す。 面の皮が厚くなってきたせいだろうか、雨を感じないのに、斜めに落ちる光の線はしっかり見える。 だんだん野に光がみち自分の周辺からひろがり野の全貌が見えてくると、新しい世界がひらけてくる。 緊張が解かれ、閉じこもっていた小さな内側から、外の世界へ行動的に向き合う力強さが湧いてくる。 野の光の中にあり、春の気に充ちて意気揚々とした気分になったことだろう。 春雨のふっている景も情緒があってよい。 雨あがりもまたよい。 雨があがりつつあるその経過も味わい深く良いものだ。 春は妖しくなまめかしい。 そうか、春愁は贅沢なのだ。 目から鱗が落ちる発見。 春愁するだけの余裕があってはじめての春愁とはね。 余裕がなければ春愁にまで至らないということか。 そういえば、このところ余裕がないので春愁とはとんと縁がない。 ゆとりね。 ユトリロは好き。 春思よりも掴みどころがなく、なんだかわからないけどこれって春愁?っていうほどのかすかなもの。 繊細な心によってしか捉えられないふわふわとした贅沢なエリートの雰囲気・気分なのだ。 まわりが春らしくなってくる頃、なんだか変な気分、それが陽気な気分であれば、春うららとなり、 ひきはなそうとしてはなれないうっすらぼんやり影をひいていれば、春愁となる。 よりどころのないたよりなさに襲われて、その原因が掴めないから、なんとなくもどかしい。 その理由がはっきりしていれば、それは春愁とはいわない。 というのは、原因がはっきりしていれば、気持ちの性質は個性をあらわしその目鼻立ちが見えてくる。 例えば負の要素を含む気分は怒り、恐れ、哀しみ、寂しさ、憂鬱、憎しみなどがあるけれど、 その原因がわかれば、春愁よりもいくぶんはっきりとした輪郭をあらわし、春思、春惜しむ、春恨むとなる。 秋は終末気分が漂うということもあって、春愁よりもわりあいわかりやすく感じやすいように思われる。 春愁は、確かにそういわれてみれば、贅沢に時間をもてあましているような気分にも思える。 貧乏暇なしにあくせく働いていると、この春愁の贅沢は味わえない。 そして、恭子の場合は、「溺れけり」とあることから、贅沢の極みにあることを謳歌している。 羨ましいかぎりである。 だからちょっとここで、冷静に頭を切りかえ考え直してみたい。 この贅沢に溺れようとすればできそうな、心がけ次第ということになりはしないか、ということである。 要するに、幸せと同じ感覚である。 気づこうとしなければ青い鳥がそばにいても見えずに屋外を探す。 春愁がそばにいても気づけないだけで、なんとなく気分がすっきりしないのは春愁のせいであって、 誰かのせいでは決してなく、あなたに原因があるのでは絶対にない、なあ〜んてね。 なんだかもやもやした気分があると、全部誰かのせいにしたくなるのが私の悪い癖だ。 すると、胸がちくちく痛んで、恨み辛みの愚痴がこれまたでてくるでてくる。 これを春のせいにすればたちまちのうちに原因も雲散霧消して、贅沢な春愁となりにけり。 するとなんだかうっとりとろりとした蜜を舐めているような贅沢な気分になる。 なんとしたことか。 螺鈿細工は、おうむ貝・あわび貝・夜光貝などの真珠のように光る部分を切り出して薄片として、 漆器などの面にはめこんで、さまざまな装飾模様を造りだす。 見る角度によって色の光沢を変え、真珠の艶を帯びて虹色に変化して美しい。 卓は、香華などを置く机をさしているから、散る梅は花瓶か水盤に活けてある梅なのであろう。 散った花びらも生け花の素材のひとつとして観賞し、それを「螺鈿」としたところが見どころである。 生け花として活けられた梅が、まだいのちを宿していて、その生を終えようとしてしているところを愛でられている。 美意識の鋭い蕪村ならではの掴み方で、漆黒の面に落ちた梅の花びらがときの経過とともに、 螺鈿の妖しい光を放ち、華麗な幻想を抱かせながら、海のさざ波に洗われる貝へと化身する。 白い花びらが水分を失い変色して哀れな姿になる前に、「螺鈿」としての永遠のいのちを付与した。 芸術というのは、こういう過程をいうのではないか。 一瞬のうちに過去へと葬られていく。 その瞬間を言いとめることによって永遠のいのちを得る。 過去へと押しやる宇宙のエネルギーに抗うエネルギーを与える者が芸術家である。 刻一刻と進む歯車をぎいぎいと押し留めようとして無理を承知で戦いをいどむドン・キホーテのような行為だ。 今にも決壊しそうな大洪水の前に、ひとりで果敢にくいとめようとするグスコーブドリのような行動なのだ。 それがうまくいけばいいのだけれど、うまくいくとはかぎらない。 それがわかっていても、動きださずにはいられない。 芸術家は革命家である。 (深空はみそらと読ませる。 ) 心の動きが面影から蝶の動きへ、さらに空の深みへとたどり、それはすなわちその思いが深められていく様を表す。 思いはそこで終わるわけもなく、消えては浮かび、浮かんでは消え、面影に季節の彩りが加えられさらに深まってゆく。 その展開が流れるようになめらかで、しかもみるみるうちに対象を変えながら、最終的には面影が また深い空の上に浮かぶという鮮やかな手口に、してやられたという感慨を抱かせられる。 面影にまた戻ってゆく、という当然の成り行きに異議を唱える人は、面影を思い浮かべることのない人であろう。 面影を思い浮かべるとき、脳の構造はいったいどうなっているのだろうと脳の神秘を考えさせられる。 目の前に在るのは現実の世界であるのにもかかわらず、人を思えば、その人の面影が浮かんでくる。 残像作用のおかげで私たちは、映画をまるで連続しているように見ることができるように、 脳には像を記憶するカメラのような機能がある。 それは、思い出したいときには即座に現れるという魔法も使う。 どこにいても、思い出したいとき、写真をわざわざ取り出さなくても脳裏に焼きついており、ふわりと現れる。 現れたり消えたり自由自在に操ることができ、思い出したくないときは、どのような仕組みになっているのか、 不思議と現れない。 「見えないものを見る」というのは、意識が強く関係していそうだ。 思い出したいときに目を凝らせば像が浮かぶ。 ぼんやりと思い出しているより、面影の実像を浮かべながらの方が、幸せな気分に浸れる。 その面影を目に浮かべながら、その面影が動き出すのに任せて対話している時間がまた愉しい。 聞いたことのある声が生々しく聞こえてくるようになるとますます面白くなって、没頭してしまう。 にやにやひとり笑いをしているから、他人がそれを見たら、結構不気味であるかもしれない。 そういう経験は誰にでもあり、特別なことではない。 恋という媚薬はこの世を薔薇色にする。 そういう世界に遊んでいるとき、蝶がその世界に入ってきて、思わず知らずにその動きにつられる。 ふわふわとたよりない動きが、その世界にはぴったり調和して違和感がなく、面影と蝶が融和する。 そして、その世界にしばらく遊んだあとどこか遠くへ飛び去ったあとに残された空の深さに感動するのだ。 それは恋によってぬりかえられた輝かしい世界を表し、蝶はまた自分自身の投影でもある。 The best and most beautiful things in the world cannnot be seen or even touched. We must be felt with the heart. Love is being stupid together. 恋というものは、誰もそれに逆らえず、自分を守ることさえもできない。 どんな馬鹿なことをしでかすかでその深さを量ることができる。 恋の陽気な気分が幻影を抱かせ、春はことさら狂気に充ちてふわふわ浮きうきさせる。 はっきりとそのどちらかをさすこともあり、ぼんやりとその両方をかねていることもある。 句を読んで判断するのであるが、読むたびに変わり、読んでもなんだかわからないこともある。 俳句に使われる言葉は、多様性があり、かちっと決めるよりは曖昧に包含するような表現が好まれる。 それが広がりのある豊かな余韻を醸し出すことにもなり、人間に寄り添う俳句らしさともいえる。 白黒はっきりさせたいというせっかちな向きには、俳句は微妙にしっくりこないかもしれない。 あまりにも鋭く切れすぎて頭脳明晰に斜めに構えるようではたちまち川柳になってしまう。 こうしてみると俳句を嗜む人間の性向がある程度見えてくるように思える。 人間のもつ曖昧さ、ファジー感覚をどれだけ許容できるかということになってくるのではなかろうか。 なんでもかんでもはっきりさせたい傾向のある人は、おそらく17文字の縛りにうろたえるはずだ。 はっきりと追求したいものごとは、とても17文字では表せないからだ。 それに、なんだかもやもやとした言葉にならない感覚を捉えようとすることにも関心は向かないだろう。 優柔不断というのとはちょっと違う、どっちつかずのゆれにたゆたう遊び感覚、とでもいっておこう。 何が何だかわけがわからないぼんやりとした得体の知れない何か変を相手にする。 どこがどうなって面白いのか。 いったい何にとり憑かれたのか、何かが狂ってしまったのか。 誰も知らない、おそらく結論が出ないだろうところの怪物が、好奇心の向かうところなのだ。 例えば人間の心なんていうのは、一番身近にいる自分さえもわからないから面白い。 昨日まであんなにかっかと噴火していたのに、いつのまにか穏やかな人になってしまう。 とても同じ人とは思えない。 現実は小説よりも紆余曲折があってはらはらどきどきの実感を伴い、しかも主人公だから面白いに決まっている。 だから、俳句とか詩に書いておきたいと思うわけだ。 小説ではないし、ドキュメンタリーでもない。 大空に広がる雲の形が二度と同じではないように、同じ日は絶対にありえない。 昨日ではない今日の一刻が瞬時に経過して、しかもまわりのあらゆるものも変化しつづけている。 さて掲句。 これは「春日」から受け取るある実感があって、その言葉にならない曖昧なものを表現しようとした。 「春日」のイメージを私(花蓑)はこのように表現してみましたが、みなさんにこの表現で伝わりますか。 あとは読み手にお任せする。 丸投げの潔さ。 真意は伝わるだろうか。 神のみぞ知る。 芸術とは何か。 我ながら何がなんだかわからないままによく進んでいけるものだと感心する。 闇雲に進んでいて、あとからわかってくることもある。 あれはこうで、これはこういうことだったのか。 おぼろげながらわかったとしても、それはある一瞬のことであり、また姿を変えて次には違った顔をしている。 わからないのはこの私であって、あちらからはすっかりわかってしまっているのだ。 まだ慣れていないからぶつからなくてはならないわけで、ぶつかるたびに生身の身体に痛みを感じる。 かろうじて瞼の奥に届く光を感じながら、どれほどの恐怖を味わいながら歩みだしているのだろう。 一寸先は闇。 危険に満ちて、大きな不安と戦いながら、もう終わりかもしれないという絶望的な状況における選択なのだろう。 裏通りの狭い道を傷だらけ痣だらけになりながらよろけて歩く哀れな犬の姿が浮かんでくる。 新しい道を果敢に歩行しているとしたら覚悟の上ということになり、多少の痛みには耐えられるような気もする。 じっとうずくまって寒さに凍え死にするわけにはいかない。 腹をすかせて飢え死にしたくもない。 いつもの道では餌にありつけない。 けれど、新しい道に一歩踏み出そうとするには勇気がいる。 往来を歩行することができるということは、散歩に連れて行ってもらえない犬に比べれば恵まれている。 また主人の選んだ道しか歩行できない犬に比べたら自由意思でどれだけでも選択肢がある。 誰もひきとってくれない盲犬だから手に入れられた野生の自由というものがあるかもしれない。 盲目といっても、どの程度、いつから、どうしたのだろう、といった思いが働き、その犬に関心が湧く。 まだ春といっても寒さを感じるときにこうした動物の姿を見ると、犬に近い人間としては、 なんとかしてやりたくなってくる。 どうしたらいいのか、といってどうしようもできない自分に淋しさを感じる。 どういうわけでこうなったのかはさておいて、これまでなんとか生きてきたということは、 これからもこの調子で生きいけるであろうというかすかな望みをもつことができる。 もちろん、普通の犬とは違って、生きるのが難しいであろうことについては同情したくなってくる。 何にも手伝うことはできないけれど陰ながら見守っているからがんばれ、と応援したくなる。 人間の立場から犬を見ているからこうなるのであって、盲犬にしてみれば、そんなこといっこうに気にしていない。 それはこちら側の一方的で傲慢な思いこみであって、犬は自然と戯れ、自然からの偉大な贈り物を満喫している。 同情なんていらない、自由気ままに生きる、と潔く運命を受け入れて犬の仲間と愉しんでいるのだ。 この痛みは健康な犬にはわからない甘美な痛みかもしれないんだぜ。 歓喜に至る絶望の痛み。 昆虫に生まれたら昆虫の見え方しか知らない。 別に不幸でもなんでもない。 夜空が年齢を重ねるにしたがって美しく見えるようになるのは不思議だ。 幼い頃には夜空がない。 人間は、いろいろな規則やしがらみに縛られて、自由なようでいて案外不自由である。 ああ人間に生まれなくて良かった、と犬の方ではせいせいしているかもしれない。 生き物は個体として必死になって生きているのであって、他人からはうかがい知れないそれぞれの事情がある。 自然界において生物は、よりよく生きやすいように最大限のエネルギーを費やしてサバイバルに生きている。 耳が聞こえない鬼城であるからこそ身に沁みて感じ、盲犬によせる眼差しは哀しく優しい。 鬼城でしか捉え得ない弱小者への視点をもつ格調の高い純粋な句は、読者の心を激しくゆさぶる。 眠るようにしている。 特別集中力をつけたいときには眠るにかぎる。 高校の学年末試験は、終わったら3日後には単位認定の評価を出さなければいけないので、 考査最終日の最後の時間に当たったら悲惨になる。 採点だけは、前もって準備するというわけにはいかないからだ。 クレペリン検査を思い出す。 自動車学校の入校式でこのクレペリン検査をさせられたときに、足し算の最後までいったのに 時間が余った私は、あれっ時間がもったいないじゃんと思って、下の行まで計算していって、 適当にしゃかしゃか足し算をしていった。 だって、時間が余った時の対応については説明を受けていない。 心理学を勉強して定形曲線を知っていたので、正常に近く、しかも霍乱要素を加えながら終了した。 どんな判定結果がでたのか非常に興味をもった。 すると助手席に忘れられたカルテの 心理判定欄には、「指導によって天才的に力を発揮する。 指導によってはナメラレル。 」とあった。 睡眠時間によって、明らかに集中力に差が出てくる。 たっぷり眠れば、単純作業でもゴールまで全力疾走できる。 そのようなわけで早めに寝床に入り、やらねばならないことをすっかり忘れてにっこり笑ってお休みする。 何をするにしても嬉しくてたまらないけれど、眠るときはまた格別、いろいろ想像をしながらわくわくして眠る。 健康で若いので、眠れないということはない。 やらねばならないことがいろいろあって眠れないだけだ。 できれば毎日たっぷりと睡眠をとりたい。 と願っているのだけれど、つい時間が経ってしまう。 あれやこれやとやりたいことがいっぱいあるので、眠るのが惜しいということもある。 ほんとうに1日が24時間しかないのがうらめしい。 あと1時間増えたら何をしたいかというと、睡眠に当てたい。 裏返せば、潜在的に常時1時間ほど睡眠時間が足りないという感覚があるのだろうか。 誰しも寝ているときぐらいは、幸せな気分になってこの世を自分の思い通りにしたいという願いをもつ。 弘子の場合、エジプトの女王様だった、というわけだ。 朝寝朝酒朝湯の小原庄助さんのごとく、と比べればわかるように飛び切りゴージャスな気分が加味される。 エジプトを舞台にした映画を観ると、天蓋のうすいヴェールが風にゆられてロマンティックだ。 エジプトの女王様といえば、楊貴妃と並び称される絶世の美女で、ギリシャ語やエジプト語をはじめとして 何か国語をも自由自在に操る文句なしに知性の高い女性、「クレオパトラ」を思い浮かべるであろう。 彼女は機知にも長け、軍事・政治面に非凡な指導力を発揮するマルチな才女でもあったらしい。 どこまでほんとうかわかったものではないけれど、かなり信ぴょう性の高い歴史家プルタルコスの記録にはこうある。 「彼女の美貌はそれほどのものではなかった。 しかし、 彼女の会話の巧みさは天才的で、魂からにじみでる 言葉の魅力には抗えないものがあった。 しかも優雅な身のこなしにあらわれる色香には独特の魔力があった。 彼女の声は、囀るように琴線を弾き、聞く者をうっとりさせずにはいられない」。 プトレマイオス家の王宮で、ローマ帝国の事実上の独裁者カエサルとクレオパトラは、運命的な出会いをした。 ギリシャ商人の絨毯の中からするするっと転がりでるようにしてカエサルの目の前に現れたのだ。 その夜が彼女の人生のクライマックスで、そのときのことを想像しながら眠れば最高。 さぞかし目ざめは爽やか、頭脳明晰、エジプトの太陽さえも味方するような高揚とした気分であったろう。 普通は座敷に飾られる。 徳川ゆかりの尾張地方は、見栄を張って豪華な結婚式を挙げるので有名であるが、 3月3日のお雛さまも5段どころかさらに2段多い7段を飾って精一杯の大見栄を張る。 男の子なら端午の節句、女の子なら雛祭りまで、実家で面倒をみる嫁入り道具のひとつとされている。 毎年この頃になると徳川家に伝わる豪華な雛人形が徳川美術館で公開される。 ため息が出るほど上品なお雛さまや細かく念入りに細工をされた調度品が一挙に並べられる。 座敷に飾るお雛さまが豪華であればあるほど、まるで徳川家の末裔のような気分になってくる。 お正月が過ぎてほっとするまもなく早々と奥の方に仕舞われていた桐の箱を持ち出してきて、 雛壇を組み立て、大事に包まれている白い花紙をほぐして雛人形を丁寧に壇上に飾ることになる。 年に1度お気に入りのお雛さまに逢えるとほっとする。 お顔が優しくて気品がある。 雛人形は、娘のためというより、母親が楽しむためのものではなかろうか。 子育てというのは忙しいもので、生まれたその日から1日も休みがないてんてこ舞いの日がつづく。 忙しいからといって決して辛くはなく、むしろこれからの可能性に賭けて歓びに満ちたものである。 その忙しさにかまけて忘れている精神的なゆとりや豊かな情緒をとりもどすためにあるように思える。 雛飾りの前で遊んでいる娘を見て、母親としておおいに自己満足に耽ることができる。 遊んでいる当の娘はまだ小さいので、何がなんだかまるでわかっていないだろう。 お兄ちゃんは、右大臣や左大臣の刀や矢が欲しくて親の目を盗んで手に入れどこかへ隠したり、 オルゴールを鳴らして遊んでいるうちはまだいいけれど、そのうち落書きをして困らせる。 新しい妹ができ、親は娘の方にすっかり気をとられているので、兄としてはまったく面白くないのだ。 さわっちゃいけませんよ、といわれても、人形の位置を変えたり、御所車を動かしたりしたくなる。 そのときは大人しくしていようと思うのだろうけれど、妹が気に入らない。 妹に悪戯をするわけにもいかず、 自然に雛人形に矛先が向かう。 お兄ちゃんの淋しさがわからないではない。 いじらしいくらい。 言って聞かせてもこういうことはどうしようもないので、お兄ちゃんにはたっぷり愛情をそそぐしかない。 3月3日を過ぎたら直ぐに片付けるということになっており、娘のためならば喜んで親として骨を折る。 片付けが終わるとほどなくして、今度は鯉のぼりが立てられることになる。 すねていたお兄ちゃんの顔がようやく輝きだす。 しかし、確かにもう天道虫は、飛んでいる。 2、3日前、同僚と研究室で話をしていると、開いている南窓から虫が入ってきて窓ガラスに留まった。 おやっと思って目を近づけると天道虫であった。 鮮やかな赤に黒い星が浮きあがっていた。 部屋は2階にあり、こんなに高く飛ぶことができるのかとそれにも驚いた。 何もかも初見の時期が早まっている。 たんぽぽや土筆が見られたのも例年より1か月以上早いそうだ。 ツバメもすでに沖縄を通過したそうだから、本州に飛来するのも時間の問題だ。 掲句には、「八月十五日終戦」の前書きがあり、「昭和二十年八月、米軍の本土上陸に備へ、 対戦車自爆隊の一員として、千葉県上総湊(かずさみなと)の兵舎にあり」とある。 解説を読むとさらに詳しく、作者は終戦の1か月ほど前に召集され、 爆雷を背負って敵の戦車の下へ飛び込むという訓練を重ねていて、終戦を迎えた、と記されている。 信じられないようなあんな馬鹿げた時代に生きていなくて良かったとつくづく思う。 戦争という大きなくくりに縛られていたとはいえ、人類の知恵というのが完全に抹消されてしまった。 しかし、今の平成21年もあと50年もしたら、そのときに生きている人も今の私たちと同じように、 あんな馬鹿げた時代に生きていなくて良かったと思うのだろうか。 それとも、50年の未来から見て羨ましいと思えるものが今の世の中に何かあるのだろうか。 戦後、今までの思想が崩壊して新しい価値観が創造された。 平成の今、世界経済が未曾有の危機にあって、これまでの価値観が崩れようとしている最中だ。 ここから、どんな魅力的な価値観が生まれようとしているのだろう。 インターネットの第三次革命の進行する中から見えてくる新しい光はどんな色をしているのだろう。 地球も氷河期とは逆の地殻変動の時期にきているのかもしれない。 崩壊の中から見えてくる怪物はどんな顔をしているのか、じっくり見てやろうと思う。 平凡な私である。 なんとか生き延びて50年後まで生きてその世界を見てみたいと切望する。 私とあなたの合言葉、細く長く100歳までいっしょに長生きしましょう。 これまでに見たことも聞いたこともないような良いことがきっと待っているはずだ。 それによってたちまちにして雪がふっているリアリティーの中にこの身が置かれ、 雪の中に放り出された生身に感じる雪の感覚が生々しく目覚めさせられる。 雪を感じるのに、文化・文明によって育てられてきた繊細な雪の形象の美しさがある。 その奥に忘れかかっていた動物的な雪に対する感覚を、遠い記憶の中から呼び覚まされる。 幼い頃に感じたであろう純粋で素朴な雪に対するあの感覚である。 「山鳩よ」という措辞によって山鳩の身になって雪を感じさせるという窓秋のマジックにかかってしまう。 山鳩が感じるであろうという状況に置くことによって、理性が感じるヴェールをはぎとって、 原初のレヴェルで感じるであろう雪に対する感動をよみがえさせられる。 山鳩は、カラスやスズメやツバメのように身近にいる鳥だ。 それでいて人間に一番馴染みがあり親しいのが山鳩であるから、感情移入しやすいといえる。 この魔法にかかってしまうのは、窓秋の意図せぬ結果であろうか。 それとも、用意周到に仕組まれた技巧なのだろうか。 レトリックの魔術師だ。 山鳩よまわりを見てごらん、雪がふっているよ、という山鳩への窓秋の呼びかけから、 いつのまにか、山鳩の目に映る雪を感じている窓秋の詠嘆になりかわり読んでしまう。 雪に感じる抒情は、そのときどきに置かれた個人の抒情を増幅して感じるように思える。 幼い頃にある日目覚めれば大雪がふっていたときのあの五感が忘れられないで残っていた。 今までずっと忘れていた記憶がずるずると手繰り寄せられる。 こんなことがあるものなのだ。 母が編んでくれた長くて広いマフラーを思い出す。 雪がふった日は、真知子巻きにして学校へ行った。 それから教室の椅子にくくりつけられた座布団も思い出した。 痩せて寒がりで、よく風邪をひいてひどい咳をしていたので、母は椅子用の座布団を作ってくれた。 それが、ずり落ちないようにと紐でくくりつけるようになっていて、その紐が毛糸で編まれていたのだった。 伊吹颪がきつくて、昔はよく雪がふった。 雪がふったら雪合戦で、手袋がびたびたになった。 いっきに雪の故郷の思い出が蘇った。 記憶の底の伊吹山はいつ見ても真っ白だった。

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日本のポップミュージックそのものが松田聖子なのではないか? 1990〜テン年代の10曲

記憶 の 中 で ずっと 二 人 は 生き て いける 歌詞

2015年12月27日主日礼拝 「ついには幸せにするために」申命記8章2、3、11節 申命記8:2、3、11 「ついには幸せにするために」 【序】一年最後の日曜日となった。 あなたの一年は如何だっただろうか?「まあまあ良かった」「もう一つだった」「さっぱりだった」…色々あるだろう。 今から3500年前荒野の旅を終えるにあたって神はモーセを通して民に語られる。 それは苦難の奥義に関するもので、今日にも適用される内容であった。 神が苦しめた、と?! この言葉は「訓練する」という意味。 人の成長のために神が訓練されるとの意味である。 へブル12:6には 「神は愛する者を懲らしめる」とある。 つまり訓練は神の愛の印なのである。 人生の苦しみや不可解な禍を人や環境しか見ないなら、恨みしか出てこない。 大切なのは善も悪も支配し益に変えられる愛と全能の神に目を注ぎなさい、という事である。 その時苦難や禍の意図が見えてくる。 苦難に遭いそれが大した力にならないことを知らされる。 苦難の時は真の頼りを知るべき時! 【例】イソップの狐と猫の会話…狐が猫に尋ねた「お前は幾つ逃れ場をもっている?」猫「木の上だけ」 2. 「神の言葉によって生きるため 3 人は自分の価値を地位や富や能力にあると思っている。 それがなくなると自分は惨めだ、失敗者だと勘違いしている。 しかしあなた自身の価値は病になっても地位がなくなってもあなた自身にあることを知る必要がある。 お母さんの宝物は絶対指輪だと思っていたけど、指輪は二番目だった。 僕、宝物になっちゃって 困るよ。 宝物ってはめたり、付けたり、掛けたりするものなのに。 でも何か、いい気分。 僕は外へ出て走り回ったよ」 3. 「ついにはあなたを幸せにするため」(16) 御言葉は「ついには」と教える。 人生の途中ではない。 もうだめかと思う時、神の偉大な祝福の業が展開する。 人生の途中で結論を出さないようにしよう。 【証】天才的ピアニストのフジ子・ヘミングさんのデビュはピアニストでは異例中の異例。 60才過ぎてからだった。 フジ子へミングさんの証 彼女は若い頃から天才的ピアニストと言われながら、実際にデビューしたのは1998年で60歳を過ぎてからだった。 ドイツに留学し有名な指揮者バーンシュタインに認められ華々しいデビューの機会が与えられたが、悪性の風邪をこじらせ全く耳が聞こえなって演奏会は中止。 次第に音楽界からは忘れられていった。 95年お母さんの死で日本に戻り、96年聖路加病院のロビーでボランティアとして患者さんのためにピアノを弾くだけになっていたが、そこを通りかかったNHKのディレクターが彼女の演奏を聞き、インタビュした結果「フジ子・あるピアニストの軌跡」という番組を制作したのだ。 その中で彼女はリストの難曲「ラ・カンパネラ」を演奏したところ、曲に電話が殺到した。 「あの素晴らしい演奏家は見たことも聞いたこともない、誰ですか」と。 クラシック界では記録を塗り替える54万枚が売られたそうだ。 彼女はこう言っている「今の私は以前よりずっとピアノが上手くなりました。 どうしてもっと早くこの時が来なかったのか、と思ったことがありますが、今がその時だと思います。 それまでの不遇の生活を支えたのは聖書の言葉でした」 「もし遅くなってもそれを待て。 それは必ず来る。 遅れることはない」(ハバクク2:3) 2015年12月20日主日礼拝 「素晴らしい喜び」ルカ2章8-12節 ルカ2:8-12 「素晴らしい喜び」 【序】もしキリストがお生まれにならなかったら…先ずクリスマスはない。 ハレルヤコーラスも歌えない。 プレゼントもなくなる。 クリスマスセールもない…年末の大きなイベントがなくなる訳だが、でもそう大した事ではない。 しかしもしキリストがお生まれにならなかったなら 「民全体への素晴らしい喜び」 10 という最も大切な恵みが失われるのだ。 つまりキリストは人類に「素晴らしい喜び」を与える為にお生まれになった。 9年間闘病生活。 治らず車椅子生活…ある日先輩から聖書をもらう。 しかし長い間段ボール箱に入れたまま読まなかった。 「あいつもとうとう神様なんかに頼る事になったか」と思われたくなかった。 しかし突っ張っても全く心は変わらない。 「入院生活で覆っていた飾りはぎ取られ、本当の自分と向かい合う。 本当の自分は強くもなく立派でもなく、立派な事を思っても次の日はもういい加減な事を考えるだらしない自分。 マタイ11:28のキリストの言葉に出会い不思議な安らぎと愛と力を感じやがてキリストの中にこそ根源的不安の解決があると知って生きる力を見出し花を描き詩を添える新しい人生をスタートさせる。 未解決だと引きずり生活心も晴れない。 しかしキリストの恵は過去の傷を一新させるのだ。 【ヨセフの例】17才の時、腹違いの兄達に半殺しの目に遭いエジプトに奴隷として売り飛ばされる、挙句の果て無実の罪で牢獄生活十三年。 しかし不思議な運命に導かれ39才の時エジプトの大臣として抜擢される。 やがてかつて彼を痛めつけた兄達に再会。 復讐を恐れた兄に向ってヨセフは言う 「今、私をここに売った事で心を痛めたりしてはなりません。 神は命を救うためにあなたがたより先に私を遣わして下さったのです」(創世記45:,5)意味が変えられているのだ! あなたも辛い経験があったとしてもこうして教会に導かれ救いを得られた。 辛い経験があればこそあなたは神の愛と救いに導かれた。 誰にも来る。 あなたにひとつの質問をしたい。 「あなたには死に対する希望の確信がありますか?」あなたは成功者かもしれないし、地位もあり富もあるかも…しかしそれらがあなたの人生の最終コーナーの時、永遠の希望をもたらしてくれるだろうか?どんなに富を蓄えてもお金を抱いては死ねないのだ。 そのとき死にさえも打ち勝つものが有るか無いか…しかしここに素晴らしい喜びが与えられる。 神が天国でその人を必要とする時が来たから召されるのだ。 ハッピーエンドはドラマではなく信仰者の現実なのだ。 2015年12月13日主日礼拝 「恐れることはない」ルカ2章8-12節 ルカ2:8-12 「恐れることはない」 【序】今日の主題は「恐れることはない」だが、人の一生で「恐れ」を知らない時代は赤ちゃんの時だけで、一人歩きし始めるようになると途端に怖いものに出会い、それ以後は「恐れ」の連続!人の顔色、仕事、生活の心配、家族の事、将来の事、病気、そして死…最後まで恐れに囲まれる。 テロの脅威や様々な災害、地震の不安…それで今日の主題にしたのではない。 元々クリスマスそのものが「恐れからの解放」をもたらすメッセージなのである。 BC800年ごろ預言者エリシャの時代、イスラエルがアラム軍に取り囲まれ、エリシャの従僕達は恐怖におののいたが、神は目を開いて神の軍が守っていることを示された。 信仰とは人生の主役を自分から神にお譲りする事である。 即ち、自分と自分の考えを置いて神と神の御言葉に従う事である。 自分の経験や考えに生きるだけだと恐れに囲まれる。 今日ダビデの町にあなた方のための救い主がお生まれになった」(10,11) キリストこそあなたが自分の人生の主役を明け渡すに値するお方である!このお方こそ人生の嵐も死も将来の不安も一切御手に治めておられる救い主なのである。 それは神が「恐れるな」と人に語られる時、単に恐れを取り除くだけではなく、今まで経験しなかった様な新しい祝福への道を切り開く時の神の励ましの言葉。 例: 紅海に追いつめられた民に海を二つに割き救われた時も「恐れるな」(出エジプト14:13) だから恐れを感じる時は、神があなたに神を仰がせ祝福された未来を開く新しい人生のステージへの招きでもあるのだ! 【証】私の献身…両親の反対にあった。 その晩夢を見た。 一つの道を歩いて分岐点に差し掛かった、右は母親が泣いている、左は顔は見えないが白い衣を着ておられる…目覚めて布団に正座し、神に自らを献げる祈りと両親の救いを祈った、神学校入学は喜びよりも悲壮な思い…10年後父の見事なまでの信仰告白に至る。 恐れを超えた神の御業! 2015年12月6日主日礼拝 「なぜキリストは馬小屋に?」ルカ2章1-7節 ルカ2:1-7 「なぜキリストは馬小屋で?」 【序】「釈迦は城で王子として生まれ身分が高いが、キリストは馬小屋で大工の息子で生まれた、身分が卑しい」と聞く事があるが、それは的外れの考えである。 今日はキリストがなぜベツレヘムの小さな汚れた馬小屋でお生まれになったか、その真の理由を知って頂きたい。 それを正しく知る時、それはあなたに救いと慰めを与えるだろう。 しかし旅は守られ、ベツレヘムに到着し無事出産!更には救い主はベツレヘムで生まれるという預言をこんな形からでも実現に至らせる神の真実を知るに至った。 彼らはこんな危険な旅をさせたのはローマ皇帝だと思っていただろうが、その上に神が支配しておられた。 【適用】 人生にもあなたを動かす「アウグスト」がいるのではないか?あなたを強制的に動かす人なるアウグスト、人生を狂わす試練や病というアウグスト。 不満も出るだろう。 しかし アウグストでさえあなたを救いと恵に導く神の道具でしかない。 人が神になったのではなく、神が人となられたのだ。 当時は神が人となるなどとは今よりももっと冒涜も甚だしい罪であった。 それが真面目に受け止められ世界に伝えられてきた。 キリストは神の御子として正当な扱いを受けられなかった。 「宿屋には彼らのいる場所がなかったからである」(7b)生涯全体がそうであった。 神の御子なのに只の人間と見なされ、否、不当にも偽メシヤと言われ、罪のかけらも無いのに極悪人として十字架につけられた。 キリストは酷い扱いを受けてこられたのだ。 【証】神学生時、ある教会の青年会に説教を頼まれた。 クリスマス劇があり、意地悪な宿屋の主人の言葉に肩を落として立ち去るヨセフとマリヤに、ある男の子が泣きながら叫んだ「ヨセフさん、マリヤさん、ボクの家に来て泊まって下さい!」と!知的障害の子だった、皆ジーンとなった。 馬小屋のように暗くて汚れている所を清め明るくする為であった。 人間の罪の汚さ、苦しさ、悲しさを喜びに変える為であった。 馬小屋はその象徴的な場所であったのだ。 【証】三浦綾子さん…罪と絶望の日々、聖書を通してキリストの救いを受け入れる。 その時の歌: 「自己嫌悪、激しくなりてゆきし時、黒く濁りし雲割れにけり」 【結び】キリストは理不尽な人生、不当な扱いを受けている多くの人々、そして罪に悩む者に救いを与えるためにベツレヘムの馬小屋でお生まれになったのである。 2015年11月29日主日礼拝 「確かな人生に導くもの」マタイ2章1-11節 マタイ2:1-11 「確かな人生に導くもの」 【序】ある心理学者が言った「努力は報われると一般では言われるが、必ずしもそうではない。 報われない事が多い。 しかしその努力がグンと報われる確率が高くなるケースがある。 それは、 何かを信じて、誰かを信じて努力するなら、報われる確率が高くなる」…2千年前の「東方の博士達」も明日をも分からぬ砂漠の中を「確かな神を信じ」導きに従って救い主を礼拝するという目的を果たす事が出来た。 現代にも通じる確かな人生に導くものは何か、伝えたい。 今も神は私たちに確かな人生を歩めるように様々な「星」で導かれるのだ。 【適用】あなたが教会に来たのはたまたまと思っているかもしれないが、聖書には 「あなたがたがわたしを選んだのではない。 わたしがあなたがたを選んだのである。 (ヨハネ15:16)とあり、神は今も様々な「星」をもって私達を導かれる。 ある人には家族や友人を通し、又様々な集会を通し、そして時には苦難や病や問題を通してでもあるのだ。 人生の答えと救いを得るには「聖書の言葉に聞く事」が大切なのだ。 【適用】求道者の疑問「そう思うから聖書を読んでいるのですが、信じられないような話が出てくる。 奇跡とか復活とか…あれって事実ではなく何か象徴的な事柄ではないですか」と。 そして思った「私は聖書の言葉を自分流に変えて読もうとしているが、果たして聖書の主張を変えてまで自分の考えや知識の方が正しいと言えるのか?私は聖書より賢いのか? と反省するに至った。 しかし神は彼らを守り安全に導かれた。 そして彼らは宝物を捧げる目的を果たした。 ここに励ましとチャレンジががある。 【適用】私達は理想環境を求め易い。 しかし求めるべき答えは 理想の環境でなくてよいのだ。 大切な事は、 理想の環境を求めることではなく、目的を果たすことなのだ。 たとえ劣悪環境の中でも、東方の博士達のように目的を果たすことだ。 そうすると 「この上ない喜び」が博士たちにも臨んだようにあなたにも臨むであろう。 2015年11月22日主日礼拝] 「心騒ぐ人へのメッセージ」ヨハネ14章1-3節 ヨハネ14:1-3 「心騒ぐ人へのメッセージ」 【序】最近外国からの観光客が実に多い。 京都、奈良という昔ながらの観光よりも、世界遺産になった和食(特に握り寿司)を食べにやってくる、可愛いアニメグッズとか、安全で質の高い家電製品、化粧品等を爆買するとかで来るのだ。 口々に日本は安全で商品も安心、親切だと言ってくれて、こちらも嬉しくなる。 感謝すべき国に住んでいる。 しかし私達日本の個々人を見る時、様々な事で「心騒がせ」ているのが現実。 キリストはそういう私達に励ましのメッセージをされた。 不安とは、将来の問題で自分が身動き取れなくなるのではないかという恐れである。 悲しみとは、今まで打ち込んできた仕事や大事にしている人を絶ち切られる事で自分が空っぽになってしまう、自分の生きるエネルギーの喪失が悲しみである。 神を信じなさい」と言われた!その意味する事は: 1 .神の存在を信じさない 「神を信じませんか」に対し「そんなに弱くない」と言う方がいる。 そう言い切れるか? 「人間は万物の霊長」と言うが動物にも劣る人間の憎しみと妬み。 (百獣の王ラインの王者争いで一方が尻尾を下げて逃げると、他方は後追いしない)しかし人間だけが「これでもか! 」と何十か所もナイフで滅多打ちする。 憎しみ、妬みは強烈で消す事さえできない。 一人が作り方を尋ねたら「これ簡単ですよ!? 」と答えたのは作っていない婦人だった!ケーキ作りのライバルらしかった。 また悪口一つでも人を殺し得る。 人は言葉一つで殺しうるものをもっている。 「私はそんな酷い事を言っていない」と言うが、自分も他人によって心の傷ができた時に他人に言わないように、相手もあなたの言葉で傷ついたとしても言わないだけだ。 無関係に思えるがそうではない。 その意図は人間の最大の試練はやはり死であるが、その死でさえ全ての終わりではなく天に住まいを備えられていることを知らせるためだ。 神は決して私たちを見離さない。 人間的にもう絶望と思ったことでさえ、神には人間の思いを超えた祝福計画があるのだ。 【例証】なぜ神はモーセが40歳の時ではなく80才の時に召されたか?それはやがて約束の地に行くためにどうしても荒野の生活を40年しなければならない。 都会しか知らなかった40歳のモーセでは役に立たず、無意味に思えた40年間の荒野を知るモーセでなければ役に立たなかったのだ。 神の深い配慮! 故に、人生でなぜこんなことが? と思い悩む人よ。 武器の湿気を防ぐためだった。 しかし戦争が終わり放置されたままだったが、その会社の社員が二家族ピクニックに行った時、奥さん達がサラダを包むために包んだところ瑞々しく新鮮そのもの。 それで夫たちは社長に提言し、それが台所用に作られ世界的商品となった。 奥さん達の名前はサラとアン。 それで名が「サランラップ 男と女の発想の違いを感じる。 今日厳しい時代だが、聖書を通して発想が変えられ揺るがされない希望で生きて頂きたい。 「こう思う」という個人的考えではない。 確信=信頼に足る真理の事! 【例】私の友人に「確信」という言葉をやたら使いたがる人がいる。 …「英会話伝道こそ現代の伝道の突破口と確信しました」「そうですか」…1年後「ノバの駅前留学が来たので任せました」「??」…「冬ソナ」の頃「今や韓流ブーム。 だから韓国語講座を開くことを確信しました。 あのチェ・ジュウさんもクリスチャンだそうですね。 招きたいと思います。 」「そうですか」…1年後「彼女を招くのは高額なのでやめました」 こういうのは「確信」とは言わない。 病や試練に会わないとか、リッチになるとかが確信と言うのではない。 それらは病や試練の時、山と金を積んでも希望も永遠の命も得られない。 しかし死は既にキリストに打ち破られた。 永遠の天国に迎えて頂ける!• 人を祟りや呪いで支配したりされない事。• これらも全て「益に変えられる神」の愛の中にある。• 深さ=悲しみの谷底。 あなたは教会に色々な理由で自分で来たと思っているかもしれないが、実は神があなたに目を留め愛し選んでおられたから教会に来たのだ。 あなたがこうして教会に来ているという事実そのものが、神があなたを愛しているという印なのだ! 「命は大切だ、命を大切に、そんなこと何千回何万回言われるより、誰かが本気であなたが大切だと言ってくれたらそれだけで生きていける」(日本公共広告機構) 本気で愛し命を捨ててくださったキリストの愛を確信して生きて頂きたい。 2015年11月8日主日礼拝 「否定的な自己像からの解放」エペソ1章1-6節 エペソ1:1-6 「否定的自己像からの解放」 【序】石川啄木の詩に「石川は不憫な奴だ こう自分に言いて 悲しみてみる」があるが、人は否定的な考えをすると否定的な感情が生まれ、破壊的な考えをすると、破壊的な感情が湧いてくる。 ある心理学者が、人間という生き物は四六時中自分に話しかけている生き物だ。 その言葉のほとんどが否定的だ、と語っている。 勿論、楽しい肯定的な考えも持つのだが、一人になると「アレさえなければ…そうなったらどうしよう」と根底には否定的な考えや感情があるのではないか?一回限りの人生、願わくば肯定的な明るい気持ちで生きるために聖書のメッセージを聞いて頂きたい。 育った環境、人からの酷い言葉や、扱い、病、事故など。 私の高3時の事故や父の事業の倒産は不運に嘆かせ否定的な感情に襲われたものだ。 あなたにも様々な否定的な経験があっただろう。 しかし言えることは、何故試練に会うのか。 それはあなたの運や心がけが悪いからではない。 倒れない前には今までの知識や経験で通用していたものが通用しなくなる。 そしてそれに勝る力と希望をあなたが知る為だ。 生協の基礎を作っ た賀川豊彦もそうであった(母に「あんたは父さんが外で産ませた妾の子、母さんの子ではない」と言われ 自分は望まれぬ子だったと、自分の命と存在に意味を見いだせず死を願うに至る。 母親があなたを生む前から神はあなたを思い描き、あなたの 誕生を心待ちにしておられたのだ。 人は環境の産物ではない。 親の遺伝子さえ超えた存在。 神はあなたを特別な存在として計画し命を与えられた。 それ程尊いのだ。 2.あなたは愛されている 「神は私たちをご自分の子にしようと愛をもって定めておられた」 6 多くの人が自分の価値を求めるが「自分なんて」と不安に思っている。 しかしこれを他人に求めると時間と共に失望する。 神の愛を知る時、自分なんてと言う低い自己意識から解放される。 【証】不幸な家庭環境からぐれた青年が教会で神の愛を知り救われ大きく変えられた 次頁参照 3.神はあなたの傷を癒す 「傷のない者にしようとされました」 4 人は過去に様々な傷を持っている。 言葉も分からない不安の中で苦節10年、やっと生きる目途ができたかと思った矢先、あらぬ罪で入獄(深い傷)。 もう自分の人生ここまでかと思った時、同じ獄屋に入ってきたエジプト王高官の夢を解き明かした事で予想さえしなかった大臣への道が開き、後の兄達に語る。 「あなた方は私に悪を計りましたが神はそれを良い事の計らいとされた、ですから心配は要りません」(創50:20) これは傷が癒えた人の言葉!獄屋はヨセフには絶望だったが、神は人間の絶望を祝福の出発点とされた。 信じよう! 不幸な家庭環境からぐれた青年の救いの証 彼がまだ母親の胎内にいた時、母は他の男性と一緒に暮らし始め、彼は生まれ、後に弟と妹が生まれた。 父の違う彼は悉く父から虐待を受け、中3の時、居たたまれず家を出る。 職を得るが、人間不信で直ぐに他人と衝突し傷害事件を犯し臭い飯も食う。 23歳の時ノイローゼになりウイスキーと睡眠薬を飲まなければ眠れなくなる。 ある日ふと訪れた教会で聖書の話を聞き、午後から牧師と話をする。 心に詰まっていた思いを打ち明けて後、牧師は三つの話をした。 翌朝教会に電話がかかる。 「僕です、昨日はありがとうございました。 昨晩ウイスキーも睡眠や君も飲まずにぐっすり眠れました、嬉しくて! 今彼は結婚し、二児の父となり、あれほど憎んでいた老いた母を引き取って幸せに暮らしている。 そしてひょっとしてそれこそが真の成功者ではないかという話をしたい。 女性実業家で一代で財産を築いた成功者。 しかしガンに倒れ末期。 …預金通帳を見ながら溜息。 「この財産(0が八つ付く預金額)をバカ息子と強欲嫁に渡すかと思うと死んでも死にきれん!」 2.華やかな世界的スターの意外な現実(元映画評論家小森和子談)… 3.アカデミックな成功者の告白(日本最初のノーベル賞受賞者湯川秀樹氏『旅人』 「私の関心は物理学ではありません。 それはあなたの運や心がけが悪いからではない。 【証】三重苦のヘレンケラーを闇の世界から導いたのはサリバン先生だが、彼女は絶望的な環境で育った…アルコール依存症の父の暴力でお母さんは死亡、続いて3歳の弟も栄養失調で死亡。 父に捨てられたサリバンは孤児院で生活。 統合失調症にもなる。 不運と恨みの中で絶望的日々。 そんな時教会訪問団を通してキリストを知る。 十字架の愛と赦しを受け入れ、恨みと嘆きに変えて祈りと聖書に聞く人生。 25 【序】人の言葉には時に後の人生を決定するような人を生かす素晴らしい言葉がある。 ある講師の話。 小学生の息子が試験 でゼロ点を取った。 恐る恐る父に見せたところ意外な言葉が返ってきた「偉い! 」「えっ?」「二つの点で偉い。 まずこれ以上 下がないという点を取った。 もう一つはお父さんに勇気を出して見せた事」今その息子は小学校の先生だ!父の言葉が人生の 支えになったのだ…今日の聖書の話もキリストの暖かく力ある言葉と行いに心惹かれる。 伝えたい。 多くの病人がその回 りにいた。 その池の水が揺れる時があり真っ先に入る者はどんな病でも癒されるという 言い伝えがあったからだ 4。 そこに38年間も病で伏せっている男がいた。 そのために必要な真理、秘訣を三つお語りしたい。 1.人間そのものが孤独である この男は38年も誰にも声を掛けられない孤独の中にいた。 よく聞くのだが孤独というのは自分が内気だとか、友達付き合いが下手とか、寂しい環境に育ったとかという理由で孤独なのではない。 人は 最後まで頼りになる友を持っていないという理由で全ての人が孤独なのだ。 両親も友人もお金も地位も最後まで頼りにならない。 寂しく死んでいくところに根本的な孤独がある。 しかしキリストは彼を「見、もう長い間の事なのを知り」 6 心に寄り添って下さった。 キリストはこの人の心にある根本的な孤独に深い憐みを持つお方である。 2.病の癒しを強く願いなさい 病人に「よくなりたいか」は変な言葉である。 しかしキリストは全てを知り抜いておられるお方である。 この問いかけから分かることは、この男は直りたいという願いを長い絶望のあまり失っていたという事である。 それゆえ先ずキリストは彼に 強い願いを喚起されたのである。 キリストは病を癒す力あるお方であるがその前に人に癒しの願望を喚起される。 聖書を見ると癒しには二種類ある。 一つは病そのものの癒しー奇跡である。 【適用】「求めよ。 そうすれば与えられます」(マタイ7:7)求める前から諦めることのないように! 3.不幸を人の所為にするのを止めキリストに信頼しなさい 「私を入れてくれる人がいない。 もう他の人が先に入っていく」 7 そうかも知れないが、不幸を人の所為 に数えている間は何も起こらない。 この思いが自分を嫌な寝床に縛り付けている。 キリストに信頼する人生を求めよう。 人待ち依存の人生から主に信頼して生きよう! 2015年10月18日主日礼拝 「あなたは要らない」と語る罪」ローマ6章23節 ローマ6:23 「あなたは要らない」と語る罪 【序】若者言葉って解らない時がある。 初対面の青年が「僕ってシャイじゃないですか」(知らん! 「この料理やばくない? 」 賞味期限過ぎた? 意味が変わってしまう。 「切れる人」という言葉も昔は頭が抜群に良いという意味だったが、最近「あの人直ぐ切れる」と言うと「突然怒り出す人」となる。 現代は切れやすい時代で事件も多い。 聖書は人間は神の愛の作品と語るのに、なぜ人間社会はこうも残酷な事が横行するのか?聖書はその根源をこう語る。 「罪から来る報酬は死です。 それは刑法で言う罪。 23節の「罪」は原語で「ハマルティア」=「的外れ」の意味。 【例】親が子供に一番言ってはいけないのは「あんたなんか要らない子だった」子が親に「早くくたばれ」。 存在する者に対する最大の侮辱なのだ。 それだけではない。 これが人間世界の悪の根本原因なのだ。 聖書が語る事は、どんな形で死ぬかよりも、神との関係を切った結果、人は死ぬものとなった、という事実。 それゆえ三つの事が分からなくなった。 ある人は良い事をすれば天国に行けると考えるが、良い事をしても、既にしてしまった罪を消し去る事にはならない。 又キリストだけが救いなのか? 仏教でも良いではないか?確かに仏教にもよい教えがあるが、人間の不幸の原因は病気でも貧乏でもない、罪と死である。 それを救うのはキリストのみなのだ。 【例】深い谷底に落ちた人に対する孔子、釈迦、キリストの態度…孔子「頑張れ努力せよ」釈迦「人生の無常を悟れ 諦観 」キリスト「自ら谷底に降りて傷つく人をを抱きかかえ一緒に登って助けてくれた」 2015年10月11日主日礼拝 「あなたに関する神の祝福ビジョン」エペソ2章1-10節 エペソ2:1-10 「あなたに関する神の祝福ビジョン」 2015. 11 【序】小学生の時「人間は万物の霊長」と聞いた。 地球の中で最も優れた生き物という事だ。 でも思春期になって様々な劣等感に陥り、交通事故や父の事業の倒産などで「自分は不運だ」と嘆き、低いセルフイメージに悩まされた。 しかし高3で福音に出会い劣等感から解放された。 自分は自分でいいのだ。 セルフイメージも高められた。 意外に多くの人が低いセルフイメージで生きている。 聖書が語る「神の祝福ビジョン」を知って頂きたい。 三つの発見がある。 聖書では「死」=「分離」。 つまり人が自分の創造者である神を受け入れず交わりを 持たない状態を「霊的死」と語る。 例:子が賢く品行方正でも親と口を利かないなら最大不幸。 しかしそれを人に求めるとやがて時間とともに失望する。 人の愛に勝る愛がある。 【実話】小学3年のさっちゃんが参観日帰宅するなり「お母さんもう学校に来ないで!…だってみんなお母さんの事をお化けって言うから」と泣き出した。 お母さんの額から頬にかけて紫色の痣があった。 実はさっちゃんが1歳の頃、囲炉裏端で眠っていたが途中で起き出してお母さんのいる台所に向かってハイハイし出した、囲炉裏には熱湯の入った鉄瓶が掛けてある、とっさにお母さんはさっちゃんを払いのけたが、手が鉄瓶に当たり熱湯がお母さんの顔にかかり大火傷になった。 それをじっと聞いていたさっちゃんは「お母さん!私の為に…ごめんなさい」それからさっちゃんは友達がからかっても「お母さんは私の為に身代わりになってくれたのよ」と語るようになった。 健康な人も、病気の人にもどんな人にも使命が与えられている。 「行い」とは行為だけではない。 「良い行い」には「とりなしの祈り」も一寸とした親切な「言葉」もある。 【証】5歳の楓花が鼻血を出したとき小1の柊が「神様楓花ちゃんの鼻血を直して下さい」と祈った、ジーンときた。 魂に甘く骨を健やかにする」 あなたの言葉は何を語っているか? この使命は構えなくてよい。 今一番売れている本はお笑い芸人、又吉直樹の「火花」で二百万部を突破したそうだ。 ただ同じ本で二年続いてのベストセラーは無い。 しかし統計にのらないが毎年ベストセラーを続けている本がある。 聖書だ。 毎年5百万冊出版されるスーパーベストセラーだ。 その理由は、国の憲法の基礎となる様な人間の基本的在り方を教える事もそうだが、人に救いと希望を与えてきたからだ。 今日は健康志向時代に嬉しい福音について語りたい。 もし「若返りの薬」を発明したらノーベル賞ものだろう。 だがそれは不可能に近い。 なぜなら人間の成長曲線によれば20-21歳で体力筋力や記憶力の成長が止まり、後は下降線。 衰え古びていくからだ。 しかしそれに勝る神が与えてくださる三つの「新しさ」が今日の聖書に記されている。 1.内なる人が日々新たにされる 「外なる人は衰えても内なる人は日々新たにされている」 「外なる人」とは自分の身体のこと。 そしてこの体は「衰えるもの」。 「内なる人」とは 神を信じ神の愛を宿して生きている魂のこと。 つまり神との交わりを通して御言葉に養われて生きる人生は「日々に新た なのだ。 【証】ある人が「私は信仰を持ってから聖書を読んでいますが、年の所為か御言葉を覚えられない。 ざるで水を掬っているようです」と言われた。 確かにざるで水は掬えないけれど、ざるそのものは水を注がれ清くなっていく。 それでいいのだ。 2.艱難に対する理解が新たにされる 「艱難は私たちの内に働いて計り知れない重い永遠の栄光をもたらす」 17 【証】重い病を経験した婦人の証 「何で私が?! 家族からも「あんたクリスチャンのくせにそんな病気になるなんて信仰の値打ちない!」 信仰を御利益しか考えない酷い言葉で心に傷を受けた…しかしある晩、夢を見た、イエス様が十字架に張り付けされ。 自分が近くにいる。 そして今度は自分がスーッとイエス様と一緒に十字架に付けられる。 天から声が聞こえ「お前はキリストのものだよ。 お前の自我は一緒に死んでいるのだ。 主のなさる事に間違いはないから全てを主に委ねなさい」…それから迷いはなくなり夫や姑、家出した弟の救いのために専ら祈る祈りのノートを作った…やがて婦人の葬儀の時は牧師がそのノートを見つけ皆の前で読んだ。 すると弟がワーッと泣き家出した「罪深い僕を赦してください。 姉はこんなしんどい中でも僕のために祈ってくれていた。 今日からキリストを信じます、姑も「私も信じるわ」夫も「私も教会に行く」そしてみな信仰を持った。 3.視点が新たにされ る 「私たちは見えるものにではなく見えないものにこそ目を留めます」 18 聖書は視点を目の前の現象から、見えない神に目を注ぐ事を勧める。 現象に視点を合わせているだけだと振り回されてゆとりもなくなる。 むしろその現象を支配される神に視点を変えよ。 視点が変われば ゆとりが生まれる。 ゆとりが生まれれば事態に支配されなくなる。 事態に 支配されなくなると 事態も動き出す。 不思議な神の摂理! 【結び】読書の秋、聖書に親しみ心強められて生きようではないか! 2015年9月27日主日礼拝 「私たちのゴール」 箇所:マタイ5:16。 マタイ5:16 「私たちのゴール」 【序】ダイエットは難しい。 ジョギングしても、パン1個食べれば体重は元通り。 すると運動の意味がなくなる。 ところで、ダイエットはうまくいかなくても、人生において生きる意味を知り、ゴールを設定するのは大切なこと。 「私たちのゴール」と題して話したい。 進化論を主張する人々は「すべての生き物は偶然の産物だ と語り、「生命の起源に神など必要ない。 神は存在しない」と声高に訴える。 進化論は今日、多くの人々に受け入れられたが、もしこの主張が真実ならば、人間は動物と何ら変わらなくなる。 人生に特別な意味も目的も存在しない。 ところが聖書は「人生には意味と目的がある」と語る。 その意味を語る前に「そもそも神は存在するのか」について話したい。 神なくしてゴールはないからだ。 詩篇19:1に「天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる」とある。 大自然や宇宙を見る時、その背後に人間を超えた存在(神)がおられることがわかると教えている。 それらの複雑さ、偉大さを見れば、作者の存在がわかるというのだ。 人は創造者である神を認めて初めて、生きる意味と目的を見出すことができる。 では「神の栄光を現す」とは何か。 キリストは言われた。 「あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい」(マタイ5:16)光とは暗闇を照らし、進む道を示し、希望と安心を与えるものである。 神の御子イエスを信じるなら、私たちもこの方の光を受けて輝くことができる…と聖書は語る。 人々に正しい道を示し、希望と喜びを与え、家庭と社会に影響を与えることができるのだ。 【証】久米小百合さん(歌手)「私を見て、私を聴いて」という世界から「私の背後にあるものを見て、聴いて、感じてほしい」という願いに変えられ、ポップス歌手を引退した。 【証】ニック・ブイチチさん(両手両足のない豪州人男性)「人生に意味はない」と考え、自殺を図るも未遂に終わる。 やがてキリストを信じ、与えられた体を受け入れ、生きる目的を見出した。 今や世界中で福音を伝え、人々を励まし、神に栄光を帰している。 【結び】創造者を認め、キリストを信じるなら、生きる目的(ゴール)は見つかる! 2015年9月20日主日礼拝 「夕があり朝がある」創世記1:5。 創世記1:5 「夕があり朝がある 15. 20 【序】今から250年前にキャプテンクックがオーストラリア大陸を発見したが、二本足で歩く(飛びはねる?)動物を見て驚いた。 動物と言えば人間以外4本足で歩くと思っていたからだ。 現地のアボリジニア人に「あれは何だ」と聞いたところ「カンガルー」と答えた。 その意味は「わしゃ知らん」という事だが、それが世界に広がった。 勘違いである。 今日の聖書は一見勘違いかと思う表現が出てくる。 このシルバーウイークに際しその意義を伝えたい。 なのに聖書は逆である。 「夕があり朝がある」なぜ聖書はあえてこの表現をするのか?これには訳がある。 「希望の朝」から始まった人生なのに「夕闇迫る 不安を通るのだ。 しかし神にあっては人生の闇も光へと逆転する世界があるのだ。 「夕暮れには涙が宿っても朝明けには喜びの叫びがある」(詩篇30:5) 【証】28年前にある夫婦が小学1年の息子を交通事故で失った…妻は夫に「お父さん、もう私はこれから笑う事がないかもしれません」しかし数年後同じ様な経験をした婦人が彼女を訪問し、帰り際こう言った「今日は本当に慰められました。 太宰治は言う「優秀の優という字は優しいとも読む。 真に優秀な人は優しい人だ。 優という字が人偏に憂と書く様に、真に優しい人は必ず憂いを経験している。 「涙の谷を過ぎる時も、そこを泉のわく所とします」(詩篇84:6) 2.神にあっては死という人生の夕闇にも逆転の朝があるから 死は最大の不安で、先人たちは死の不安を歌に託してきた。 死後直ちに永遠の命を戴くのだ。 これは悟りや修行に依らない。 キリストの約束であり、自らも死に打ち勝つ事によってその確証を与えて下さった。 つまり、闇を追放しようともがくのではなく、光を投ずれば部屋は明るくなり、闇は追放されるのだ。 キリストは言われた「わたしは世の光です。 わたしに従ってくる者は決して闇の中を歩むことがなく命の光を持つのです」(ヨハネ8:12) 人や問題だけを見ないで万事を益に変える神を信じ夕を朝とする人生を生きよう! 2015年9月13日主日礼拝 「望み得ない時ぶも」ローマ4章18節。 ローマ4:18 望み得ない時にも」 15. 13 【序】ある人が結婚指輪を買いに店に行った、その際指輪の内側にメッセージの印字をお願いした「永遠に一緒だよ」と。 ところが出来上がってきた字に一字間違いがあった、「だ」が「か」になっていたというのだ。 この人が変わってくれた…という様に、自分を取り巻く環境や人が変わった事によって与えられる希望。 しかしこれは「棚からぼた餅」式の希望だ。 時に良い「ぼた餅」が落ちてきて喜ばせてくれるが、落ちてくるものは「ぼた餅」とは限らない。 時には「岩や石」で大怪我する時もある。 2.内側からの情報による希望 他人や環境ではなく、自分の心に言い聞かせる訳だ。 「心を強くもとう。 今はダメでも明日がある。 頑張るぞ!」こういう決意で希望を見出そうとする方も多い。 しかし今日、感謝や希望を見いだせないなら、明日感謝や希望に生きる保証はない。 この意味は彼が破れかぶれになったという意味ではない。 彼は人間的に望み得ない状況の中で神を仰ぎ信じて希望を持つ事ができた、という意味。 つまり外を見ても内を見ても希望が見えない状況のなかで「上」を見上げたのである。 この希望にあなたも招かれているのだ。 悉く願っていることが外れていく。 そんな不安と孤独で希望の見えない現実にいた。 そんな時、神はアブラハムを夜呼び出して言われた。 「このように子孫はなる」と。 それを彼は信じた。 やがて神の言葉が実現する。 1.神は人の不安と失望をご存じである。 2.神は人の不安を希望に変えられる 3.そのために必要な事は神の言葉を信じる事である 【結び】地上が土砂降りの雨であっても飛行機に乗って雨雲を突き抜けると、そこに太陽に輝く青空の世界があるではないか。 皆さん。 「外」がダメでも「内」がダメでも「上」があるのだ。 「失望したければ横を見なさい、絶望したければ自分の内側を見なさい。 しかし希望を抱きたければ上を見上げなさい」 2015年9月6日主日礼拝 「後ろを振り返らず」ピリピ3:13、14。 ピリピ3:13-14 「後ろを振り返らず」 【序】パンダのしっぽの色をご存じだろうか。 パンダは部分的に黒いので、しっぽも黒だと思ってしまう人が多いが、正解は白!更にパンダの目の周りは垂れ目の縁どりになっているので、つい垂れ目の動物だと思いがちだが、実はパンダの目はつり上がっている。 実際は、相当いかつい顔立ちなのだが、天然メイクが垂れ目のために、愛嬌のある動物に見えている訳だ、先入観を持つと真実が見えない…聖書も単に宗教書と思っている人も多いが、実は人生の祝福のために書かれた本である。 パウロが獄中で不自由な筈なのに、それに捉われない生き方を示している。 「主の祝福そのものが人を富ませ人の苦労はそれに何も加えない」(箴言10:22)を知る故である。 2.過去の恥や罪も帳消しにして生きてよい 誰にも罪や弱さがあり引きずり易い。 しかし神の恵は常に新しい第一歩を踏み出すチャンスが提供される。 「誰でもキリストの内にあるならその人は新しく造られた者です。 古いものは過ぎ去って見よ。 又例の罪を犯しました」「例の罪って何ですか。 赦された恵みをこそ憶えなさい。 事実パウロは牢獄に捉えられていることを宣教の前進になったとさえ言いきっている 1:12-14 2.死に勝つ道を目指しなさい どんな日常で素晴らしい事があっても死が来たらすべては意味なし。 【例】一枚買った3億円の宝くじが当たり、応募した写真が一等の土門拳賞をとり、本まで出ると。 おまけに恋人からの電話で「結婚に反対していた父が賛成してくれたの!」嬉しさで頭クラクラ。 そこで病院で安定剤をもらうが医師から「一か月前の検査でわかったがあなたは今の医学では治療不可の病で、命あと一か月」死の宣告を受けたとき、それまでに聞いていた嬉しい知らせは、輝きを増すだろうか。 それらの喜びは、死に立ち向かっていく勇気を与えてくれるだろうか。 死が未解決なのは不安なのだ。 しかし聖書によればこの地上に生涯の最後に死があるが。 この死後にキリストを信じる者には天国という素晴らしい報いの世界がある。 死には「別れの寂しさ」があるが、信仰者には「また会いましょう」と言えるのだ。 死後十数年を経て姉は受洗。 神にあっては未完はないのだ! 2015年8月30日主日礼拝 「失望はあっても絶望はない」ローマ5章3-5節。 ; ローマ5:3-5 「失望はあっても絶望はない」 15. 30 【序】マナー教室の講師がプレゼント選びのコツを話しておられた。 一言で言うと「もらった人が誰かに話したくなるようなものを選ぶのが良い」そうだ。 それがあると、同じ辛さの中でも重荷も軽く喜びと力が湧く。 それがどんな明日であるか判らぬにしても、とにかく神が私達に与えて下さる明日なのだ。 (健康、所有、愛する者、仕事…) この「喪失」は辛いことであるが、聖書によればこの喪失は「失望に終わらない希望」に導くプロセスだという事である。 だから艱難や試練は辛いものであるが 信じて良いのは、艱難や試練はそれだけで終わらず、失望に終わらない希望が待っているという事である。 だから「試練」 原語「パイラスモス」 には「上を見上げさせるもの、との意味があるのはそのためである。 一般的に忍耐とは「患難」の中でじっと我慢する事と理解されるが、聖書的意味は「忍耐」 原語「メノー」 =神の元に留まるとの意味。 例:ヨハネ15:3「私に留まり メノー なさい」(実を結ぶために必要な「剪定」(患難)の時に患難のそばではなく神のそばに居続ける事が大事! 3.艱難の中にある人に「神の愛」が注がれていることを知ろう。 「聖霊によって神の愛が私達の心に注がれているからである」(5) 人は愛されて生きる。 でも現実は? 存在そのものの否定がある。 しかし神はあなたが何歳になっても何ができなくなっても存在そのものへの愛をもっていて下さる! それが十字架に示されたキリストの愛!この愛の中にこそ希望がある。 2015年8月23日主日礼拝 「あなたは神の作品」エペソ2章10節。 ; エペソ2:10 「あなたは神の作品」 【序】図書館でベトナムに関する情報誌を読んだ。 バイクに大人二人と子供二人の4人がOK。 しかも道路のレーンがなく危なくてしょうがない。 一番人気のバイクは日本のHONDA(ホンダ)で10万円(ベトナムの平均給料の2倍~5倍)。 それでスーパーコピー製品が出回るらしい。 その名がHENDA(ヘンダ「変だ」とは!)直ぐにエンストするらしい。 …人生のスーパーコピーは困る。 聖書は人間本来の成り立ちを示し、安全と希望の生き方を示す。 聖書に聞こう。 偶然とか何かの巡り合わせとかではない。 聖書はあなたという存在は地球が造られる前から計画されていたと語る。 1:4 つまり、母親があなたを身ごもる以前から神はあなたのことを心に思い描き、他の誰よりも先にあなたが生まれるのを心待ちにしておられた。 親の遺伝子さえ越えた存在。 これが創造者と人間との真の不幸の原因。 人の愛は立が枯れる!しかし神の愛は立ち枯れない。 …その良い行いをもあらかじめ備えられた」(10) 良い行いをするために心が強められる必要がある。 暖かい言葉は命の力。 【例】黒柳徹子さんの人生を変えた言葉…小1年生で手に負えない問題児と思われ退学をさせられた。 転校先でも問題児扱い(本人は疎外感があった)そんな時、校長先生が「キミは本当は良い子なんだよ」と一日十回言ってくださった。 神から一杯良い励ましの言葉を聞いて、良い行いに励もうではないか! 2015年8月16日主日礼拝 「いつも喜びなさい」ピリピ4章4-7節。 16 【序】パウロを通して語られた有名な言葉からの三回目のメッセージ。 …アブラハム・リンカーンは米国歴代大統領の中で最も高い評価の伴う人気のある大統領であったが、若い時は違った。 友人から「君の顔は世界中の不幸を一人で引き受けた様な顔だよ」と言われた。 彼は僻み易く、恨み易く、心配性と暗い性格で周囲から自殺するのではないか、と心配された程だったが、神の愛を知り、神に委ねる人生を知って楽天的になり最も人気の大統領となった。 だからこんな詩を作った詩人がいる。 「あの人の顔を見ていると、嬉しくなる。 楽しくなる。 和やかになる。 あたたかくなる。 微笑みたくなる 主イエス様。 どれかひとつの顔をお恵みください」 (河野進作「あの人の顔を見ていると」) しかし現実は反対ではないか。 「あの人の顔を見ていると、面白くなくなる。 腹が立ってくる。 まして「いつも喜びなさい」は不可能。 どうしたら聖書の語る「喜び」ある生活が可能なのか? そのヒントは原語の理解だ。 この「喜び」という言葉は原語で「カラ」。 このカラという言葉のルーツは「恵み=カリス」である。 つまり聖書の示す喜びの生活のためには、神の恵みをいつも覚え感謝して生きる事にあるのだ。 神の恵みは十字架にある。 あなたをあるがままで愛しあなたの一生で犯す罪を黙って身代わりに神の裁きを受けてくださったキリストの愛、それが十字架である。 この愛の恵みは心変わりも消滅もない。 だからいつも恵みを思いなさい。 ここから「喜び」に導かれる。 ; ローマ8:28 「万事を益に変える神」 【序】パウロの生涯からお語りしているが、今日から何回か彼を通して語られた有名な言葉から語りたい。 今日の御言葉は、様々な不安を抱く私達に非常に大きな慰めと希望を与えるローマ8:28である。 美容整形の本を読んだ 何かしてもらおうという下心は無いが 最近医者も驚かすような手術が増えているそうだ。 目や鼻の手術ではなく、何と手相を変えてほしいとの事。 生命線が短くて不安で仕方がないらしい。 ある動物学者が「地球上の生き物の中で人間だけが明日を思い煩う生き物である」と言ったが、この不安は金脈、人脈でもどうにもならない。 それ故この御言葉の意味する励ましを共に聞きたい。 人の言葉、態度に傷を受ける。 その傷を引きずっ たままでは明るく生きれない。 そして傷を癒す事は難しい。 しかしここに傷を癒さ れた素晴らしい証がある。 創世記に登場するヨセフの証である。 創世記45:5!過去の 出来事の意味が変わっている! 神の恵みが意味を変えさせてくれたのだ。 【証】高3の時の家の倒産、交通事故は人生の挫折しかなかったが救われて後、意味が変わった。 意味が変わると傷は無くなる。 未来が分からないから不安になる。 しかしその問題は決して悪いようにはならないと思う事できれば、そんなに深刻にはならない。 【例】スポーツ中継の実況の時はハラハラするが、録画ではしない。 それは結果が分かっているからだ。 同じ様に自分の問題の結果が悪いようにならないと分かれば深刻にはならない。 キリストが十字架にかかった事はほとんどの人が知っている。 しかしそれが自分の罪のためであったと知る人はどれくらいいるだろうか。 人にはドス黒く醜い心の罪、言葉の罪、行いの罪があるのではないか!あなたの言葉の罪のためにキリストは頬を殴られたのだ、あなたの手の罪のためにキリストは手にくぎを打たれたのだ、あなたが行ってはならない足の罪のためにキリストが足の釘を打たれたのだ。 その先に敗北しかない死があると思うからだ。 様々な人が死の不安を語ってきたが、福音は死に打ち勝つ希望を提供することができる。 それは妄想でもなく、上手く考えた作り話でもない。 キリストの復活という事実の上に成り立ち、弟子達の殉教と、2千年の信者の証言から裏打ちされた永遠の希望なのである。 キリストこそ死に打ち勝ち永遠の命を与えて下さるお方 ヨハネ6:39,40! 神は万事を益に変えられる! 2015年8月2日主日礼拝 「万事を益に変える神」ローマ8章28節。 「万事を益に変える神」ローマ8章28節」?? ローマ8:28 「万事を益に変える神」 【序】パウロの生涯からお語りしているが、今日から何回か彼を通して語られた有名な言葉から語りたい。 今日の御言葉は、様々な不安を抱く私達に非常に大きな慰めと希望を与えるローマ8:28である。 美容整形の本を読んだ 何かしてもらおうという下心は無いが 最近医者も驚かすような手術が増えているそうだ。 目や鼻の手術ではなく、何と手相を変えてほしいとの事。 生命線が短くて不安で仕方がないらしい。 ある動物学者が「地球上の生き物の中で人間だけが明日を思い煩う生き物である」と言ったが、この不安は金脈、人脈でもどうにもならない。 それ故この御言葉の意味する励ましを共に聞きたい。 人の言葉、態度に傷を受ける。 その傷を引きずっ たままでは明るく生きれない。 そして傷を癒す事は難しい。 しかしここに傷を癒さ れた素晴らしい証がある。 創世記に登場するヨセフの証である。 創世記45:5!過去の 出来事の意味が変わっている!神の恵みが意味を変えさせてくれたのだ。 【証】高3の時の家の倒産、交通事故は人生の挫折しかなかったが救われて後、意味が変わった。 意味が変わると傷は無くなる。 未来が分からないから不安になる。 しかしその問題は決して悪いようにはならないと思う事できれば、そんなに深刻にはならない。 【例】スポーツ中継の実況の時はハラハラするが、録画ではしない。 それは結果が分かっているからだ。 同じ様に自分の問題の結果が悪いようにならないと分かれば深刻にはならない。 キリストが十字架にかかった事はほとんどの人が知っている。 しかしそれが自分の罪のためであったと知る人はどれくらいいるだろうか。 人にはドス黒く醜い心の罪、言葉の罪、行いの罪があるのではないか!あなたの言葉の罪のためにキリストは頬を殴られたのだ、あなたの手の罪のためにキリストは手にくぎを打たれたのだ、あなたが行ってはならない足の罪のためにキリストが足の釘を打たれたのだ。 その先に敗北しかない死があると思うからだ。 様々な人が死の不安を語ってきたが、福音は死に打ち勝つ希望を提供することができる。 それは妄想でもなく、上手く考えた作り話でもない。 キリストの復活という事実の上に成り立ち、弟子達の殉教と、2千年の信者の証言から裏打ちされた永遠の希望なのである。 キリストこそ死に打ち勝ち永遠の命を与えて下さるお方 ヨハネ6:39,40! 神は万事を益に変えられる! 2015年7月26日主日礼拝 「満たされてますか」マルコ10章17-27節。 マルコ10:17-27 「満たされていますか」?? 【序】思い違いをしている少年の話…。 今日の箇所に登場する青年も、"思い違い"をしていた1人だ。 真面目な青年だったが、虚しさを感じて毎日生きていた。 人の心を満たしてくれるものとは一体、何だろう。 キリストの言葉から、それを語りたい。 学歴もあり、健康と若さにも恵まれ、品行方正な生活を送ってきた。 彼は人々が羨むものをすべて持っていたような人である。 しかし、自分が救われているという確信はなかった。 やがて死んだ後、天国に行くことができるという自信はなかったのである。 お金や地位があっても幸せでない、典型例であると言える。 「どんなに美貌で、学歴があり、身体能力に恵まれていても、それだけでは何の役にも立たない。 心の持ち方こそが、一番大事なのだ。 『勉強のできない女子高生が、難関大学に合格した話』より」 伝道者の書3:11にも 「神はまた、人の心に永遠を与えられた」とある。 神によって造られた人間は、外見上の物質的な必要だけ満たされても、本当の意味で満足することはできない。 パスカルやアウグスティヌスもそう言っている。 彼は「それは全部守っている」と自信満々だったが、今度は 「持ち物をみな売り払い、貧しい人々に与えなさい」と言われ、落胆する 21。 ここでキリストは、青年が神よりも富に信頼していることと、自分の努力や正しさによって救いを得ようとしていることに気づかせようとされた。 実際、彼は律法を全然守れていないことも意識しておらず、自信を砕かれ、自分の弱さと限界を知ることになる。 彼に必要だったもの、それは弱さを認め、素直にキリストに救いを求める謙虚さだった。 【証】私は自分の罪深い生き方を優先し、キリストに従う決心を先延ばしにしていた。 しかし、主を素直に求める時、全ての罪は赦されて、心は平安に満たされると知った。 主は私たちに、救いの確信、罪と裁きからの解放、そして永遠の命を与えて下さる。 神に愛されているという喜び、これこそ私たちの心を真に満たすものである。 あなたが人生において大切にしているものは何?真に大切なものは何か、吟味してほしい。 それで本当に良かったのか。 答えはYESだ。 キリストは、人の自由意志を尊重されるお方である。 またキリストは、愛の眼差しで人を見つめられ、ご自分のもとに帰ってくることを待っておられる方でもある (21)。 【例】聖書中、"放蕩息子"の話ほど、神の思いをわかりやすく表す箇所は他にない。 弟息子が無一文になって帰って来た時、父が何を言い、行動したかご存知だろうか。 父は息子に駆け寄り、抱きしめ、キスをした。 最高の服を着せ、指輪を与え、ご馳走を作ってパーティーを開いたのだ。 キリストはあなたを同じように見つめておられる。 この救いをぜひ受け取ってほしい。 この世のものでは心満たされなくても、キリストだけがあなたを満たすことができる。 気になる我が教会員の顔は「さすがに違う!」時もある…「元気な心」は元気な身体以上に素晴らしいことである。 困難にも打ち勝てるからである。 今日は一見矛盾する説教題だが、その意味する所をお伝えし、元気な生涯を歩んで頂きたい。 素晴らしい経験もあったが14年前からの痛みを伴う「肉体のトゲ」に悩まされる。 その為に「肉体のトゲを取り除いて下さい」と(日に)三度も祈り続けるパウロだが、後に 「私は弱い時にこそ強い」と告白するほど解放されている。 その理由は、祈りを変える為である。 答が無いのではなく、新しい生き方を知る為の心備えができるのを待っておられるのである。 2.神はパウロの思いを変えられた 「肉体のトゲ」を「サタンの使い」 7 と語っている。 この意味は神からの新しい啓示を受けるまでは、当時の解釈「祟り、悪魔の業」と考えていたという事だ。 しかし神は 「わたしの恵みはあなたに充分である」 9 と語られた。 神による癒しには二通りある。 一つは弱さをなくす方法。 (肉体のトゲをなくすこと)。 もう一つは、弱さを乗り越える方法。 パウロには現代にも通じる後者の道を与えられたのだ。 パウロ・トウルニエ スイス精神科医、著「強い人と弱い人」 は 「本当に強い人とは自由である人である」と語る。 つまり「病、ハンディにも支配されず、弱さも告白できる自由をもっている人だ」と。 【例】三重苦のレンケラーに励まされるのは、彼女がもし信仰で全部癒されたら奇跡に驚くだろうが、病や障害のある方は励まされないだろう。 障害を乗り越える喜びや明るさにこそ人は励まされる。 【結び】肉体の重い病や挫折は人生の終わりを意味しない。 重い病や挫折を経験すると、もう人生が終わりと考える傾向がある。 そうではなく、元気な時や事がうまくいった時代は、健康の力や能力や経済の力を神は与えて導き、病や人生の挫折経験の時代が来たら、今までとは異なった次元の力で生きる段階に来たという事である。 神は私たちの人生のいつの時代にも新しい力を下さるのだ 2015年7月12日主日礼拝 「あなたも救われる」使徒16章25-34節。 使徒 16 : 25-34 「あなたも救われる」?? 【序】早天祈祷会のために毎朝5時ごろ教会に出かけてくるが、家のドアを開けると公園から鳥がさえずって送り出してくれる。 体が重い時にも気分がよくなり救われたような気持ち!その鳥は鶯!「ホーホケキョ」と。 家内が出てくる時が鶯ではなく「ギーギー鳥」?! だそうだ。 今日の主題は「救い」についてであるが。 現代にも求められている三つの救いについて語りたい。 しかし、刑務所の看守と家族が救われ、後にピリピ教会が出来、ヨーロッパ伝道の拠点となる(ピリピ1:5参照)この段階に来て意味が分かった! 【適用】まじめに生きているのに、神を信じて生きているのに、なぜこんな苦難にあうのかと嘆く人よ、 苦難の最中に結論を出すな。 「苦難」も祝福へのプロセスの一つなのだ。 神はあなたの最善の祝福の時を知っておられる。? 【適用】私たちは様々な問題に束縛されている。 病、人、仕事、恨みや妬み等…問題がなくなれば束縛されなくなるが、それが無くなると又別の束縛に支配される。 すると不思議な問題を超える思いが与えられ、人々が聞き入る程になった。 病、障害、不安、危機…その解決は神を信じる人生にある。 キリストの中には平安も罪の赦しも死に打ち勝つ永遠の命もある。 それを体験するスタートがキリストを救い主と信じる信仰にある。 【証】小谷こずえさんの証(ペンライト賞)… 2015年7月5日主日礼拝 「人は人を必要とする」使徒11章19-26節。 使徒11:19-26 「人は人を必要とする」 【序】あなたが使っている携帯電話は、何台目?新しい物好きな方は、モデルチェンジする携帯を次々と買い換えていく。 当然、廃棄処分になった携帯が世の中に溢れかえる訳だが、これらの要らなくなった携帯電話は、以前は産業廃棄物だったが、今では宝の山とみなされるようになった。 というのは、携帯電話には、貴重なレアメダルやレアアースがたくさん使われているからだ。 それで今では、ゴミではなく、都市鉱山と呼ばれるようになった…才能あるサウロも回心後は埋もれた生活だったが、その彼が活躍するきっかけを作った人がいる。 人は人を必要とするのだ。 それはギリ シャ人という外国人に語る人々が生まれたからである。 19,20 語った人々には 普通の人々には考えも及ばない素晴らし発想があったのである。 それは迫害されて 散らされる状況の中では、逃げることしか考えられないだろうと思うけれども、彼 らにはこういう散らされる状況がなければギリシャ人に語る機会はなかったと、 迫害という危機を逆手にとって伝道の機会とするという大胆な発想があったのである。 学者にもなれる聖書知識があり、外国語に堪能であった。 それに世界を安全に旅できるローマ市民権の取得。 しかしそんなサウロだが救いにあずかった後は生まれ故郷に戻り、いわば鳴かず飛ばずの生活。 しかし外国人の回心者が起こされる新しい時代を見ぬきサウロを最も生かせる時代が来たと判断し彼を捜しに行った人物がいた。 バルナバである 25,26。 能力があるサウロだが、彼一人では活躍できなかった。 サウロはバルナバを必要とした。 【適用】「クレオパトラの鼻がもう少し低かったら世界は変わっていただろう」と言う。 でもそんな美しい鼻もそれ一つを取り出せば美しくもなんともない、奇妙な物体に過ぎない。 顔の中に他の部分との調和の中で生きてくる。 それは助ける人が助けられる人より強く偉いというのではない。 実は助ける人もまた助ける事によって助けられる人から助ける喜びや自分を生かせる場を与えられているのだ。 バルナバもサウロを見出だし彼を助ける事によって助ける喜びや満足を見出しているのだ。 やがて帰国報告の中で不思議な守りを報告した折、教会では同日同時刻 に彼のために祈っていた祈り会があったと聞かされたという。 人は自分の信仰や知恵で困難を超えてきたのではない。 人は神と人に支えられて生きているのだ。 やはり命が一番だろう?」と思うかも。 「命あってのものだね」の通り。 だから健康には気を遣うし延命も図る。 しかしこの生き方は命がぐらつき始めると途端に不安になる。 そして誰もがその命を失う死を迎える訳で、そうなると命が一番という生き方だけに生きているのはゆとりもなく心細い。 「命より大切なもの」があるのだ。 今日はそれをお伝えしたい。 今日の主題は星野富弘さんの詩の一説から採用した。 「命が一番大切と思っていた頃、生きるのが苦しかった 命より大切なものがあると知った日 生きているのが嬉しかった」 つまり「命が一番と思っていた頃生きるのが苦しかった」のは彼の実体験であったのだ。 ではどのようにして「命より大切なもの」を見出されたのか?三つの出会い! 1.聖書との出会い 星野さんの危機…元体育の教師、生徒にマット運動を教えていたとき、首の骨を折る。 頸椎損傷。 首から下が麻痺9年間闘病生活、治らず車椅子生活。 …ある日先輩から聖書をもらう。 しかし長い間段ボール箱に入れたまま読まなかった。 「あいつもとうとう神さまなんかに頼ることになったか」と思われるのが嫌だったから。 しかし心のどこかにクリスチャン先輩の生き方に惹かれるものがあった。 そして読み出した。 ・入院生活で覆っていた飾り剥取られ、本当の自分と向かい合う。 本当の自分は強くもなく立派でもなく立派な事を思っても次の日はもういい加減な事を考えてだらしない自分。 鍛えた筈の根性と忍耐は一週間でどこかに行った。 ・周りが幸福だと自分が不幸になり、周りが不幸になると今度は自分が幸福になる。 自分は少しも変わらないのに幸福になったり不幸になったりするフラフラする自分を知る。 星野さんは一般的に「命が一番」という生き方も結局「 他人より 自分の命が一番」という自己中心的、エゴイスティックな命の生き様だと、聖書を通して知られたのだ。 2.キリストとの出会い 「全て重荷を負って苦労している人は私の元に来なさい。 (苦難の中で感じた思いが美しい言葉となって人の心を打つ。 (苦難は無駄ではない) 3.命より大切なもの、との出会い 星野さんが前述の詩を書いて以来多くの方から「命より大切なものとは何ですか」と質問を受けてこられた。 しかし東北大震災以降この質問は途絶えたそうだ。 財産や家族が一夜で奪われ、やはり命に勝るものはないのではないかと思うからだ。 しかしそんな時2年半前の12月に『命より大切なもの』を出された。 その中でこう語られる。 そして星野さんが見出されたキリストこそあなたが死んでも天国に行けるように十字架にかかって身代わりの罪の裁きを受け救いの道を開かれたお方なのだ。 キリストはあなたの命をご自分の命より大切なものとみなされている。 父ばかりでなく、どんな人も職場や家庭で、また病や経済その他自分の問題で時に八方塞がりに見えて悩む。 そんな時の応援歌のようなメッセージになれば幸い!。 確かに問題は重いと感じる反面、もう一方では問題を深刻に悩むのではなく「問題を笑い飛ばすゆとり」があれば…と思うのも事実。 というのも元来、日本人は「まじめ」と言われる。 問題が生じると深刻に、深刻に考える傾向がある。 すると、見える答えまでもが見えなくなってしまうのだ。 だから問題を深刻に捉えてしまうのではなく、笑い飛ばす事ができるゆとりがあれば、答えも見えてくる。 でもどうやって問題を笑い飛ばすゆとりを持つ事が出来るか、今までの知識や経験を総動員しても中々余裕は生まれない。 一つ言える事は、 この問題は決して悪いようにはならないと思うことができれば、そんなに深刻にはならない。 【例】私も可愛い孫を持つ身となったが、孫はジクソーパズルができる。 20ピース位の簡単なもの。 それでも孫は答えが分からずまごまごしている。 しかし私には答えが見えている。 これはまるで人間と神との関係に酷似。 苦難もそれだけではバラバラだが完成すると美しい絵になる。 ジクソーパズルの悟り! 人間には問題の答が分からず不安でも、神には問題の答えがわかるのだ。 過去も現在も未来も見えるお方だからだ。 しかも愛の神は私達に愛のご計画で導かれるのだ。 もし耐えられないと神が判断されたなら、別の人に、或いは別の機会に与えられる、ということ。 今、直面している試練があるとしても、それは神があなたに耐えられると見込んだ上での試練だ、ということ。 NASAは殉職声明文用意。 まじめな人ほど疲れやすいとも言われる。 今日の箇所から神がエリヤを、また私たちをどのように回復させて下さるかを見よう。 人を恐れたから(2):王妃イゼベルの怒りを買い、「殺す」と言われて恐れ慄いた。 労苦が無駄に思えた:神の言葉を語り続けるも人々が頑なになり疲労を覚えた。 思い過ごし(10):神を信じる者は自分だけと思い、王妃の言葉を真に受けた。 食事と休息を与えられた(5):神は御使いを通してエリヤにパンと水を2度与え、彼は横になった。 休息を取った後、「この食べ物に力を得て」エリヤは山に向かった。 【適用】疲れた時に食事と休息は有効だ。 焦って行動する必要はない。 一休みしよう。 語りかけて下さった:エリヤがぶつけた不平不満を神はそのまま受け止められた。 その後、風や地震、火を見せられたが、聖書によれば「そこに主はおられなかった。 」神は大きな現象を通してご自分を現わさず、「かすかな細い声」で彼に語られたのだ。 【証】人生に疲れた西野けんさんは、聖書の言葉に出会い癒やしと回復を体験する。 【適用】私たちは何らかの現象や大きな御業を神に期待しがち。 けれども神は多くの場合、そのような方法で語られることはない。 今日、神は完成した「聖書」を通して、「静かに」心に語りかけてこられる。 思いを主に打ち明け、御言葉に耳を傾けよう。 新たな使命を与えて下さった(15-16):神はエリヤの回復状態を見られ、「3人の人に油を注げ(彼らを王、または預言者の職に就かせよ)」と使命を再度与えられた。 【適用】神はあなたにも、新しい使命を与えて下さる。 あなたには「果たすべき使命」がまだ残されているのだ。 「無理だ。 できない」と思う時は、エリヤに語られた言葉に注目してほしい(18)。 「私1人しかいない」というのは思い過ごしであり、主を信じる仲間は多く残されている。 あなたも立ち直れる。 与えられた使命を掴んで前進していこう。 2015年6月7日主日礼拝 「仲間に入る努力」使徒9章26-30節。 使徒9:26-30 f 「仲間に入る努力」 【序】先週のメッセージで、大迫害者であったサウロが復活のキリストに出会い、奇跡的な回心を遂げた事を学んだが、回心後、彼のしようとした事は何であったのか、またその彼を迎える仲間はどうしたのか? 現代でも求道者や回心者また迎える教会の在り方を教えてくれるところである。 即ち教会の一員になろうと したのである。 これは信仰を持ったときの自然な流れであり、また最も健全な道でもある。 なぜなら信仰は一人でするものではなく、信仰の成長には良き同信の仲間が必要であるからだ。 【適用】まきを燃やして焚火をするとき、そのまきを一本だけ取り出すならやがて燃え尽きてしまう。 多くのまきの中で火は保たれ、より強く燃える。 信仰も同じ。 それ故サウロは身の置き所もなく宙ぶらりんの状態であった。 そんな時サウロの信仰が本物である事を皆に説得して仲間に迎えようと助ける人物が現れる。 それがバルナバである。 27 彼は後にサウロの持ち味を見ぬきその働きができるように助けてくれた恩人であり、また良き友、宣教の同労者となる人物であった。 信仰の良き友を持つのは幸いである。 【証】16世紀の画家アルブレヒト・デュラーはドイツ絵画史上もっとも偉大な画家といわれる。 貧しかった彼に同じく絵が上手であった友人ハンスが言った「僕が鍛冶屋となって君に送金するから、絵で成功したら戻ってきて今度は僕に美術学校に行かせてくれるかい?」デュラー大成して故郷に戻り「今度こそ君の番!」とハンスに言った時ハンスの手は節くれで絵筆を持てなかった、有名な「祈りの手」はハンスの友情への感謝の作品。 友を見つけることが難しいと聞くことがある。 しかしキリストは「誰が友になったか」と言われた。 友を求めるよりあなたが友、 バルナバになることだ。 しかしこのことを良しとしない人たちが彼を殺そうと狙う 29。 すると教会は彼を安全な場所に二度も場所を変えて連れて行く 30。 ここに教会のあるべき姿が教えられる。 入会するまでは慎重に信仰の告白を吟味するのであるが、一旦受け入れたとなると、今度はその人の危機には一致団結して守りぬく。 教会は 運命共同体であるべきなのだ。 男、女、年長者、若者、健康な人、病弱な人、障害のある人、皆キリストの体なる教会の一員として尊んでいく神の愛に触れる時、どんな人も驚くべき力が出る! 【証】ある知的障害の青年が漁船で下働き。 船が大しけに遭い皆で海水を必死でかき出し。 朝になり嵐も止んだが、その青年がいない!探してみると船底で死んでいた。 彼は船底の大きな穴に自分の手をつっこんで水の浸入を止めそのため凍えて死んだのだ。 懐に讃美歌があって船長が教会に届けてくれた。 愛の生き様は能力を超える! 2015年5月31日主日礼拝 「大迫害者の回心」使徒9章1-9節。 使徒9:1-9 「大迫害者の回心」 【序】ペテロの生涯を終えて、次に取り上げたい人物はパウロ、元の名はサウロである。 ペテロが非常に人間的で弱 さも暴露する人物であるのに対し、パウロは性格の強い人物で、世界大の働きをしたスケールの大きい人物である。 それだけに近寄りがたく感じている方も多い。 そこで礼拝では彼の強さも弱さも含めて彼の等身大の姿を浮き彫りにていきたい。 今日は彼の回心を通して彼が知った三つの事実について、私達への適用を含めて語りたい。 つまり、サウロはクリスチャンを縛り引きずり出している時キリストを縛り引きずり出していたのだ。 更に言えば、クリスチャンが受けてきた迫害と苦しみを他ならないキリストが共に受けてきて下さったのだ!今も! 【適用】私たちは他人からの反対や誤解、また苦難を受ける時、理解されないと一人ぼっちという意識をもつ。 しかし覚えたい。 更にガマリエル大学の門下生として深い聖書知識を持っていた。 それらの能力、技術、特権が後に異邦人への伝道者として生かされていく。 そう理解すれば、信仰を持つ前に知らず知らずに身に着けていた事が実は主の御用に役立たせる準備だったと言える。 【適用】あなたも生まれてこのかた信仰を持つ前に様々な知識、能力、技術を身に付けてこられたと思う。 実はそれらは主の御用に役立つ準備を知らず知らずに得られてきたのだ。 「私など能力も知識もない」という必要はない。 あなたのマイナスと思われる経験でさえ主の御用に役立つのだ。 不思議な主のご計画! 2015年5月24日主日礼拝 「闇を変えて光となす御方」ヨハネ9章1-7節。 ヨハネ9:1-7「闇を変えて光となす御方 【序】クリスチャン作家であった三浦綾子さんは、77年の生涯で多くのベストセラーを出されたが、病気の連続で もあった。 若い時にカリエスで13年間の療養生活、直腸癌やパーキンソン病…しかし講演会で開口一番「一寸先は闇と言いますが、私はキリストを知って一寸先が光と変えられした」それって凄い心強い人生ではないか。 闇を変えて光とするお方について伝えたい。 全く誤った思想! 【例】三浦綾子さんはカリエスで療養中ある宗教の伝道師に「肺結核と癩病は天刑病で神が与えた罰、即ちハイと素直に返事しなかったから。 顔にある痣は前世に夫の顔を踏みつけたからと言われ非常に心を傷つけられた。 信仰者でもまだ考えが変えられてない人は、自分が良い信仰者でないから禍いが起こるのだとか、自分に災いがあるのはあの人の所為だと人を責める。 つまり因果応報ではなく、神の罰でもなく、禍や障害も神を信じて生きる素晴らしさを体験する材料であると、キリストは教えられたのだ。 禍さえ神の業の体験する機会に変えるキリストがおられるのだ。 そこで彼は行って洗った、すると見えるようになって」 7 キリストは他の箇所で見られるように直ぐにでも癒す事が出来たが、それではその場だけの奇跡になってしまう。 この人にはこの後、信仰を働かせて生きていく力を与えようとして「シロアムに行って洗いなさい」と言われたのだ。 その道で信仰や疑いの間を行ったり来たりして、でも行って洗えば目が開くのだと信じる方に身を委ねさせるためだ。 あなたにも信じる道を選ぶかどうかが問われている。 【勧め】聖書を知らなくて元々の人生なら、もし知って揺るぎない人生の土台を見出せたら、それは財産ではないか!やがて死という闇があるが、闇を光に変えるキリストを信じて生きて頂きたい。 2015年5月17日主日礼拝 「どこまでも生かすために」ヨハネ21章15-17節。 ヨハネ21:15-17 「どこまでも生かすために 【序】病院での話…ある男が手術を受ける。 医者から「麻酔をかけるので1から10まで数えて下さい」ところがその男、9まで数えると起き上がってしまう。 何度やっても同じ。 「あなたは何故かカウント9で起き上がる。 何か特別の仕事でも? 「ボクサーです」! …どの世界でも再起不能と思われたところで立ち上がっていくのは素晴らしい。 神は私たちがもう立ち上がれないだろうと思う中で再起可能にして下さる。 それは私たちへの希望でもある。 主を裏切った事に対する罪意識、情けなさ…。 にも拘わらず裁判の時に見た主の眼差しは責めではなく赦しの眼差しであった。 しかし彼は元の漁師に戻ろうとする程落ち込んでいた 21:3 【適用】人はあまりに自信喪失する時、その道がいかに素晴らしいと思っていてももうだめだと落ちこみ自ら身を引こうとする。 そして何をする気にもなれず元の生活に戻ってしまう。 人生の危機!しかしここに大きな励ましがある。 それはペテロが立ち上がろうとする意志や願望に勝ってキリストが挫折した者をどこまでも立ち上がらせようとする 神の意志が先行している事だ。 神という方はどこまでも人を生かしてくださるお方である。 そしてその使命は罪や挫折で失われてしまうものではない。 「あなたはわたしを愛しますか」 15,16,17 ペテロは以前、自分の自信と力でキリストに従おうとして挫折した。 これは脆いもの。 キリストはその動機を 神への愛にあるべき事を教えられた。 私たちも神への奉仕や良き業も、動機は神への愛や感謝であるべきなのだ。 【適用】私が通い始めた教会は市の老人会所有で間借りだった。 日曜日には倉庫から椅子を30脚並べないといけない。 私は頼まれる事なく早めに来てしていたが、ある時2歳年下の後輩が最後あたりに来て手伝ってくれたが、礼拝の最後で宣教師がその彼を褒めた時ムラムラ嫉妬心。 箴言31:25 「微笑みながら後の日を待つ人」 【序】今日は「母の日」母の歌は沢山ある。 「母さんが夜なべをして手袋編んでくれた…」「雨々降れ々母さんが蛇の目でお迎え嬉しいな…」感謝される歌が多い。 一方「父の歌」となると「父よ、あなたは強かった…」(死んでから思い出される!)…日本の母の歌は「優しい母さん」が理想。 しかしそれ以上に素晴らしい姿があると聖書は示す。 前半は賢い生活術について書き表すが、それ以上に素晴らしい生き方が後半にある。 それは何か? 「彼女は…微笑みながら後の日を待つ」(25)何事にも思い煩わない平安な生き方、これが聖書の理想とする母の姿。 如何に賢い母であっても、やりくり上手であっても美人のお母さんであっても、ガミガミ、イライラ母さんでは本人も嫌だし家庭にも悪影響。 もし家庭で影響を与える母が 「微笑みながら後の日を待つ人」になれたら、本人も家族への影響は計り知れない。 しかし翻って考えると、母ばかりではない。 父親も「将来のことは大丈夫!」と言い、青年も友人に「行けるよ」と心から言える事は素晴らしい事。 即ち、母のみならず全ての人の理想像である。 しかし諺に「心配事の的中率は1%」がある。 しかしその実際は起こらなかった。 心配事の的中率は1%に過ぎなかった」(『随想録』) 正に経験者語るだ。 それでもその1%の心配事の的中率を心配するのが心配性の心配性たる所以。 そのために不安を抱くのだ。 人は一分一秒先が解らないから心配するが、将来を御手に握りしかも祝福する神がおられるのだ。 その神を信じ受け入れなさいと勧めているのだ。 確かに世界に悪は存在するが、神はそれさえ造り変えられる。 この神への信仰と信頼は将来を憂えず微笑む事ができる。 【適用】女性のライフサイクル 2010年統計 この5年間、男児の方が女児より多く生まれる 11万人差。 50才から女の方が多くなる。 それから差が広がる一方 80歳で百万人差。 50で男は倒れだす、女は男を尻目に俄然強くなり、やれ旅行、ショッピング、ボランティアと動き出す…明治38年生の平均寿命63才。 末子結婚と同年に死去(夫5年前に死去) 現代の平均寿命87才 夫79才。 末子結婚後30年後に死去(夫10年前に死去)主への信頼で「微笑みながら後の日を待つ」人生とイライラ人生では相当違う。 あなたも主への信頼に生きる人生を! 2015年5月3日主日礼拝 「父よ彼らをお赦し下さい」ルカ23章32-34節。 ルカ23:32-34 「父よ、彼らをお赦し下さい」 【序】主イエスが釘付けされた十字架の上で最初に口をついて出た言葉が 「父よ。 彼らをお赦し下さい という祈りの言葉だった。 歴史上この祈りほど清らかで崇高な祈りはないだろう。 この祈りの中に主イエスはどういうお方か、又この祈りに示された神の御心は何かをお伝えしたい。 大祭司の尋問「あなたは神の子キリストか?」に「あなたの言う通りである」。 神を父よと呼び自らを神の子として神と同格に置いた事が死罪に当たる唯一の理由だった。 しかしキリストにとってはそう言うしかない事実なのだ。 それはあなたが自分の名前をその通りと言うのと同じである。 【適用】キリスト教とは、このイエスと言う方は神の御子、救い主という告白の上に成り立っている。 あなたも選択を迫られるのだ。 しかしキリストはそうではなかった。 「赦しのとりなし」とは! ・自分が赦しているのでなければできない祈り あなたを苦しめた者を想像してほしい。 その人に怒りを持っていながら「神よ。 自分は祈れないがあの人を赦してやって下さい」とは祈れない。 自分が心底赦していればこその祈り! ・「彼ら」とは誰か?? しかし彼らとは私たちでもあるのではないか?正しい事が何か判ったけれど結局自分の良心を裏切って行動したピラトは私たちではないか? ・ 信仰告白し従ってきたが、ここという時怖くて逃げた弱腰弟子は私たちではないか?・ 主に癒され励まされ希望を見いだしたのに真理のために声を上げる勇気がなかった群衆は私たちではないか? 【証】私の求道時代で他人の不思議な言葉「私が十字架に付けた」?!しかしマタイ受難曲を聞いてバッハも同じことを言った。 なぜ幼い子が短く生涯を閉じるのか。 なぜ無実な人が殺されるのか?なぜ真面目に生きてきたのに不幸が襲うのか?…この苦悩の中を歩む人に単なる道徳は机上の空論でしかない。 しかしここに最大の矛盾を生きたお方がおられる。 神なのに人間に卑しめられ、罪のかけらもないのに最大の罪人として裁かれ、愛に生ききられたのに見捨てられキリスト。 十字架にかかられたお方があなたの苦悩を理解し解決して下さる。 なぜなら十字架で終わらないからである。 復活がある。 どん底から希望が見えるのである。 2015年4月26日主日礼拝 「ストレス時代の福音」マタイ6章25-34節」。 マタイ6:25-34 「ストレス時代の福音」 【序】紀伊国屋のアンケート「無人島に一冊だけ本を持っていけるとしたら何? 」「聖書」がダントツだった。 更にアバコという団体で「あなたの好きな聖書の言葉は何か?」今日の箇所がトップだった。 裏を返して言えば、人は心配に囲まれているという事ー健康、家庭、仕事、人間関係…。 勿論好んで心配する人はいない。 しかし心配せずにはおれない現実。 少しでも聖書の言葉に耳を傾けたい。 イエス様は「明日を思い煩うな」という事を日常の事柄から優しく教えてくださった。 空の鳥から学びなさい 26,30 神は働きもしない彼等を養い、美しく備えられる。 胡桃を車に轢かせて割って食…私に「おはようございます」と挨拶! 空の鳥さえ養う神は 「あなたがたにそれ以上 よくして下さらない訳があろうか」(30) 「よく」=最善の意味。 40才までの王宮生活は最高。 次の40年間荒野生活は最悪?だがそれは後の40年間、民を荒野で導く為には最善な経験だった!• 心配しても寿命は延びない 27 「健康さえあったら命なんかいりません」と言った人がいたが、確かに健康は強い願望で重い病気は誰でも恐れるし心配も出てくる。 寿命で死ぬのだ。 寿命とは神の時の事。 重い病でも神の時が来ないなら死なないし、軽い病と思われても神の時が来れば死ぬ。 人は病気で死ぬのではなく寿命で死ぬ。 今日一日の苦労に徹しなさい 34 計画は大事だが思い煩いは不要。 大切なことは今日一日の苦労に徹する事、先の事は先自身に任せること。 十字架上のイエス様の最後の祈りは「主よ我が霊を御手に委ねます」であるが、これはカッコがいい祈りというよりも、敬虔なユダヤ人なら一日の終わりに祈る祈りなのだ。 主は人生の最後を今日一日を終わるように祈られた。 今日一日分の労苦に徹したい。 4. 神の国と神の義を第一に求めなさい 33 「神の国」とキリストは言われた。 つまり不公平と矛盾に満ちたこの世が全てでは ないのだ。 死後に神の国がある。 この神の国においてすべては正され報われて行く。 もし地上の世界で大金持ちになり大成功したとしても、この神の国に入れないなら、大損失である。 だからこの神の国に入る「パスポート」を持つことである。 それには罪を素直に認めて罪からの救いの道を開いて下さったキリストを救い主と受け入れる事である。 キリストを救い主と信じる者は神の義を受け神の国に行けるのだ。 【証】吉田姉の御主人の救い…退職後は寺参りを心の支えにしておられたが、04年すい臓がんで入院。 翌年「あんたはいいなあ行くところがあって」「じゃあ牧師先生に来て頂く?」翌日訪問。 「罪を求め、キリストの十字架と復活を受け入れ信仰告白!「嬉しい! 嬉しい」を連発された。 1月29日病床洗礼 2月2日召天。 2015年4月19日主日礼拝 「ここ一番で負けたとしても」ルカ22章54-62節を。 ルカ22:54-62 「ここ一番で負けたとしても 15. 19 【序】誰にも「ここ一番」という時があるが、あなたは「ここ一番」に強いだろうか、弱いだろうか?オリンピックでも金メダルを期待されてその重圧に負けて入賞すらできなかった選手が日本には多い。 ペテロも「ここ一番」という時に負けてしまった。 何が原因か?またその原因がもたらすもの、そして立ち上がらせるものは何か、学びたい。 ここ一番に負けたのだ。 なぜペテロは大事な「ここ一番」という時に情けない弱さを露呈したのか? 「恐れ」である。 自分も先生と同じ様に逮捕されてしまうのではないかという恐れ! 【適用】病であれ、人であれ、問題であれ、恐れに捉えられると、本来の力が発揮できない。 更にその問題から次々と不安が募ってきて一歩も動けなくなる。 それは予想される心の不安だから、思い煩いであるが、どうにもならないのである。 恐れとは実に厄介なものである。 【例】鼠を見る度に電気ショックを受ける猫は鼠に怯える。 さりとて全く離れた訳ではないが、近くにいるのでもない。 中途半端なところに立ってしまうのだ。 【適用】アダムとエバが罪を犯したとき神は「あなたはどこにいるのか」と問われたが、この問いは常にあなたに問われている?あなたは今どこに立っているか?場所的な事ではなく、心の位置。 神との関係の位置。 中途半端なところに立っていないだろうか。 2.我が身を守るために嘘をつかせたー( 「知らない、何を言っているのかわからない」(56-60)立派な信仰告白をしたペテロはどこに行ってしまったのか?権力もない筈の「女中」 56 の声に慄き、我が身を守るために嘘をつく。 恐れは真理を見失わせてしまう。 それは、これからはここ一番に負けないというのではなく、負けても 回復できるという事だ。 弱さに負けた人を憐み赦す「まなざし」である。 ペテロはそのまなざしに自分の情けなさと裏切りの重さを知って泣いたのである。 立ち直ったきっかけはこの「まなざし」を深く心にとめた事であった。 同じように裏切ったユダは立ち直れなかった。 それはキリストの十字架のもとに行かず眼差しを得ることなく 悔いただけだった。 十字架を見上げる時常にこの回復までの眼差しがあることを覚えようではないか。 2015年4月12日主日礼拝 「聖徒の死は主の目に尊い」詩篇116編15節を。 詩篇116:15「聖徒の死は主の目に尊い (メモリアル礼拝) 【序】私が子供の頃、ご近所の葬式に出席した親が家に戻ってくると「塩をもってきて」とよく頼まれた。 家に入る前に塩をまく訳で、「汚れを祓って清める」との事。 皆さんの所でもそういう習慣があったのではないか。 日本では「死」は縁起が悪いものとなっており、病院でも4号室がない所も結構ある。 ところが聖書を見ると全く違う。 「聖徒の死は尊い」。 聖徒とは神を信じ罪赦された人の事だ。 つまり神を信じて生涯を終えた聖徒と呼ばれる方々の死は尊いのだという。 なぜそうなのか?今日のメモリアル礼拝を通してお伝えしたい。 ・「ついに行く道とはかねて聞きしかどきのう今日とは思はざりけり」 在原業平 ・「今よりは何にか頼まん方もなし教えて給へ後の世の事」 良寛-禅僧 ・「昨日は葬式、今日は骨上げ、するとすれば明日は納骨、多忙である。 しかし全ての努力をした後で考えると全ての努力が無益の努力である。 死を生に変える努力でなければ全てが無益である。 しかしキリストは死を打ち破り日曜日に復活された。 それを見、手で触った弟子達が復活の証人となって命を捨ててまで世界に伝えた。 信じ難い話なのに世界に広がり続けてきた。 作り話ではここまでならない。 ヘンデルが高らかにメサイヤで歌い上げた復活。 信じる者に永遠の命が与えられる。 それ故キリストを信じた聖徒は幸い。 わたしは甦りです。 そして多くは病に倒れるという辛い経験。 「いったいなぜ愛すべき人が短命で死ぬ?なぜ不幸や悲しみを経験するのか?」それだけでなくこの世は誠に不公平な世。 もしこの世しかなければ矛盾ではないか。 しかし聖書を通してわかることは、地上が全てではない。 来るべき世界でこの世の矛盾の一切が解明され、しかも納得できる神がおられる。 【証】松野純子姉…36歳の時歯茎にできた癌、二人の幼い子供がいるのにこの理不尽。 毎日涙の日々。 病院では様々は治療がされる。 そして人生が終わる。 しかし人は病に負けて死ぬのではなく、新しい働きのために天で必要とされた時が来たから生涯を終えた。 愛の業や奉仕もその対象だし、優しい言葉や態度もそうだ。 地上では十分知られない。 その報いを神が天でして下さる。 「喜びなさい。 天ではあなたがたの報いは大きい」 マタイ5:12 2015年4月5日主日礼拝 「キリストの復活」マタイ28章1-10節を。 マタイ28:1-10「キリストの復活 【序】先週老人ホームに入居されている佐藤兄を訪問した。 62歳から求道し翌年ご夫婦で洗礼を受けられた。 現在75才。 記憶が少し怪しいと家族から聞いていたので、老人ホームに着いて「私を知っていますか」「ハイ、中西先生でしょう」「よく御存じで」「ハイ、学生時代から知っていますので!? 時間を超えた会話で大笑い!…時間を超えると言えば、人生数十年。 その間も悩みも多く最後が「死」これが不安!しかしこの時間を打ち破って永遠の命を可能にしたのがイースター!キリストの復活の故である。 でも何が信じられないと言って死人の甦り程信じられないものはないかもしれない。 そこでこの疑問も踏まえてお語りしたい。 マタイ福音書が語る鍵になる言葉が三つある。 だからそれは弟子達の作り話ではないのか 12,13。 或いは一種の象徴的な文学表現ではないのか?と言う。 しかしどうしても否定できない事実がある。 文学的表現なら説明すれば済むこと。 主を裏切り見捨てるという自分の姿に打ちのめされていた。 3年半主と共に過ごし奇跡も素晴らしい教えも、愛も知った。 しかしここ一番という時に信仰も愛も発揮できなかったのである。 それどころか裏切ってしまった。 そんな時 「ガリラヤに行こう」と主は言って下さる。 何故ガリラヤ? つまりガリラヤは新たに再出発を可能にする場所!主は過去の罪と失敗と傷を持つ彼らに、もう一度人生の再出発のチャンスを提供される。 あなたにも 再出発のガリラヤがある! 【適用】あなたが過去の罪や弱さや失敗で打ちのめされていたとしても、ガリラヤがあるのだ!主が再出発の道を用意して下さっているのだ。 実は敗北や無力の経験は 自分を嘆くためにあるのではなく、 真の力の主を知るためにある。 そもそも私達は裸で生まれて来たのだ。 やれ財産だ成功だと求めて何となくそれで間に合っていたが、人生の試練や挫折の前には本当の力ではなかった事に気付く。 だから命の原点である神に帰ろう。 新改訳では日常的な挨拶言葉に訳している。 つまり日々の平安!弟子達はこれから先、非常に不安だったーやっていけるか?世間の目は冷たいのでは?責任を全うできるか? 不安な弟子達に主は日常の平安を約束される。 【適用】大きな試練の時にも、日常の何気ない時にも、「わたしはあなたと共にいる それが死をさえ打ち破って信じる者に永遠の命を下さるキリストの平安。 イースターは正にあなたにこの平安と希望を提供される日なのだ。 感謝しようではないか! 2015年3月29日主日礼拝 後藤伝道師「愛された者として」マタイ26章36-46節を。 マタイ26:36ー 46「愛された者として」 【序】今日から受難週に入り、来週はイースターを迎える。 近年、日本でもイースターが浸透しつつあるが、単なるお祭りとして祝っているように見える。 イースターを祝う前に、主イエスはゲッセマネの園で祈られ、苦しみを受けられたことを覚えたい。 またキリストの愛と、キリストが教えられた2つの祈りについて今日は語りたい。 それはこの後、暴行、鞭打ち、十字架刑という苦難に会うことをご存知だったからだ。 ルカ22:44によれば、この時キリストの 「汗が血のしずくのように地に落ちた」。 これは、血汗症と呼ばれる、現代医学でも知られた現象だ。 キリストは心身共に大変苦悩されたのだ。 【適用】 あなたは神の御子が命を捨てて下さるほどに価値のある存在なのだ。 あなたが命を得るために、キリストは全てを放棄された。 この愛を真剣に受け止めてほしい。 苦しみを避けたいのが本心であったが、父なる神の計画を行うことを第一に願われ、それに従うという決意をされたのだ。 【証】かつて私(後藤)も名声や成功を求めていた。 しかし先日イスラエル旅行に行き、ゲッセマネを訪れて、そこで祈りをした。 「私の願いではなく、御心を行わせて下さい。

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