与謝野 晶子 短歌。 【金色のちひさき鳥のかたちして銀杏ちるなり夕日の岡に】徹底解説!!意味や表現技法・句切れなど

与謝野晶子『みだれ髪』代表作短歌の現代語訳と意味/春みじかし何に不滅の命ぞとちからある乳を手にさぐらせぬ

与謝野 晶子 短歌

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与謝野晶子(よさの あきこ)とは

与謝野 晶子 短歌

年表 西暦(年齢) 1878年(1歳) 堺県和泉国大一大区 さかいけんいずみのくにだいいちだいくにて、和菓子店「駿河屋」の3番目の娘として生まれる。 1887年(9歳)漢学塾にて朱子学や儒学を学び、琴や三味線にも精通。 女学校時代は尾崎紅葉・幸田露伴・樋口一葉などの文学に目覚め、『源氏物語』などの古典も愛読した。 1898年(20歳)和菓子屋を手伝いながら雑誌に和歌を投稿、 浪華 なにわ青年文学会という歌会にも参加するようになる。 1900年(22歳)大阪を訪れていた 与謝野鉄幹 よさのてっかんの歌会に参加し、不倫関係に。 このころから鉄幹主宰の文学誌『明星』に短歌を載せるようになる。 1901年(23歳)大阪の実家を家出し、鉄幹の住む東京・渋谷に移り住み、結婚。 同時期に代表作『みだれ髪』を発表し、賛否両論により多大な注目を集める。 1904年(26歳)日露戦争に駆り出された弟の無事を祈る歌『君死にたまうことなかれ』を発表。 反戦の歌といわれ、大きな波乱を呼ぶ。 1905~1911(27~33歳)歌集や評論文、童話などジャンルを問わず精力的に執筆活動を行う。 1912年(34歳)スランプを脱するためにパリへ渡っていた鉄幹の後を追い、ヨーロッパへ向かう。 1914年(36歳)鉄幹との共著『 巴里 パリより』にて、女性に対する教育の重要性を説く。 このころよりヨーロッパ文化の影響が色濃く表れ、女性の自立を訴える評論文を多く執筆するようになる。 1921年(43歳)西村伊作・ 石井柏亭 いしいはくてい・鉄幹らと共に、日本初の男女共学校・文化学院を創設する。 1938年(60歳)関東大震災による原稿焼失のトラブルにめげず『新新訳源氏物語』を完成させる。 1942年(63歳)脳出血で半身不随になり、合併症などが重なった結果死没。 与謝野晶子の生涯 文学に傾倒した幼少時代 与謝野晶子は1878年、 堺県和泉国大一大区 さかいけんいずみのくにだいいちだいく(現在の大阪府堺市)にて、和菓子店『駿河屋』を営む両親の3番目の娘として生まれました。 与謝野は結婚してからの苗字で、本名は 「 鳳志よう ほうしょう」といいます。 当時は跡取りとなる男の教育に重点が置かれる時代柄、晶子は5人兄弟のなかでも特に扱いがよくありませんでした。 しかし彼女はそんな逆境にも負けず、幼少より朱子学・儒学を学び、『源氏物語』などの古典や、尾崎紅葉らの小説を中心に 文学に精通。 女性は出世とは無縁とされる時代において、雑誌に和歌を投稿したり、歌会に参加したりなど、自らの創作活動に積極的なその様子は、周囲からかなりの 変わり者に映っていたでしょう。 与謝野鉄幹との出会い 幼少より進んで文学を志した晶子は相当に意志の強い女性で、一度思い込んだら一直線に突き進む性格でした。 そんな彼女のターニングポイントとなったのは、22歳のころに参加した 与謝野鉄幹の歌会です。 晶子は兼ねてから鉄幹の詠む短歌を好んでおり、「どんな人が詠んでいるのだろう」と、この歌会にも嬉々としてやってきたのでした。 なんでも鉄幹の詠む歌はその言葉の鋭さから、 「虎の鉄幹」などと異名が付くほどだったとのこと。 一本気な晶子のこと、なおさら刺激を求めていたのかもしれません。 案の定、晶子は鉄幹に一目惚れ。 これを機に2人は 不倫関係になっていきます。 そう、鉄幹は立派な妻子持ち…まあ男女の仲だから、そういう間違いもあるのだろう、と思うところ…。 しかしそもそも鉄幹は、気に入った女流歌人にたびたび手を出す 女癖の悪い側面もあったといいます。 …恋は盲目といいますか、ひょっとして晶子は見る目がなかったのかも? 家出・結婚・代表作の発表 2人が出会った翌年、1901年に晶子は 大阪の実家を家出し、東京の鉄幹の元へと移り住みます。 実家としても家業を手伝っていた娘が急にいなくなったわけですから、それは困ったことでしょう。 このとき 鉄幹は元妻と別れ、 晶子と再婚。 同時期に晶子は代表作となる 『みだれ髪』を、鉄幹主宰の文学誌『明星』にて発表します。 みだれ髪は当時としてはかなり刺激の強い性的な内容で物議をかもしましたが、これは鉄幹との燃えるような恋からの影響で、晶子の思い込んだら止まらない性格の産物です。 彼女はこの作品を通して、一躍その名を世間に広めていくことになりました。 壮絶な結婚生活…残した歌は5万首以上 心のおもむくままに、家族のことや不倫であることも顧みず、鉄幹と一緒になった晶子。 結婚してやっと幸せになれるかと思いきや、その生活はまたしても壮絶を極めました。 鉄幹は晶子の憧れの歌人であったとはいえ、作家というのはよほど売れっ子でない限り貧乏を強いられるものです。 おまけにみだれ髪の成功で有名になった晶子と、鉄幹の立場は逆転し、晶子は 一家の稼ぎ頭に。 収入のない鉄幹と、11人もの子どもたちを養うために馬車馬のごとく働くことになります。 そのせいもあって、晶子が生涯に残した歌は 5万首以上にも及びました。 有名どころだと反戦歌として問題視された 『君死にたまうことなかれ』。 このほかにも『恋衣』、『舞姫』、『常夏』、『佐保姫』など、多くの歌集を執筆しています。 そんなに働かされて、晶子も鉄幹と一緒になったことを少し後悔したのでは? などと思うところ…。 しかし彼女は「稼ぎ頭となることも自分から買って出たこと」とし、それどころかスランプに陥っていた鉄幹に対し、 ヨーロッパの空気を感じてリフレッシュしてきたら? と、渡航費を工面する始末。 どこまで器が大きいんだ…そしてどこまで鉄幹に夢中なんだ…と、頭が下がります…。 女性の自立を訴え続けた晩年 1912年のこと、結局、鉄幹の後を追って自らも渡欧した晶子は、ヨーロッパで力強く生きる女性たちから刺激を受け、晩年は女性の自立を訴える活動に傾倒していきます。 帰国した2年後に発表した鉄幹との共著 『 巴里 パリより』では、女性の教育の重要性を唱え、またこのころから歌集だけでなく、その価値観を伝えるための評論文の執筆にも力を入れるようになりました。 また1921年には、建築家の西村伊作の声掛けで、鉄幹らと共に国内初の男女共学校・文化学院の創設にも携わります。 同時に兼ねてからの夢だった『源氏物語』の 現代語訳にも取り掛かるようになり、40代以降の晶子は理想の実現に奔走する人生を送るようになっていきました。 源氏物語の現代語訳は1923年の関東大震災によって、文化学院の校舎が全焼し、一度は原稿が焼失。 しかしそれにもめげず晶子は、1938年に 『新新訳源氏物語』を完成させています。 彼女が 女性の自立を主張し続けたこと、 男女共学校を創設するなどの行動に移したこともそうですが、何よりその諦めない姿勢、どこまでも一本気な性格が当時の女性たちに勇気を与えたといえるでしょう。 きょうのまとめ 与謝野晶子の歌人としての才能は、幼少期の文学のインプットによって養われた部分もやはりあるでしょう。 しかし彼女がその才能を発揮し、さらに多くの作品を生み出していったことには、夫・鉄幹の存在が不可欠でした。 「女好き」「収入がない」ということはどう考えてもマイナス要素ですが、だからこそ晶子の素晴らしい歌の数々が生まれたことは否めません。 また彼女がヨーロッパ文化の影響から女性の自立を訴えていくのも、もとを辿れば鉄幹がきっかけです。 結局はどこまでも恋に、愛に生きた女性ということでしょうか。 最後に今回の内容をまとめておきましょう。

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「夏の短歌」5人の有名歌人の代表作を30個紹介~与謝野晶子・北原白秋など

与謝野 晶子 短歌

万葉の時代より親しまれてきた日本の伝統文学のひとつに短歌があります。 「五・七・五・七・七」の形式で詠む短歌には、歌人の心情を描く叙情的な作品が数多くあります。 中でも「恋の短歌」といえば、情熱の歌人として知られる与謝野晶子の作品を思い浮かべる方も多いのではないでしょうか。 今回は彼女が残した名歌の中から、 「清水へ祇園をよぎる桜月夜こよひ逢う人みなうつくしき」をご紹介します。 清水へ 祇園をよぎる桜月夜 こよひ逢う人 みなうつくしき 与謝野晶子 — G. 清水へ 祇園をよぎる 桜月夜 こよひ逢う人 みなうつくしき (読み方:きよみづへ ぎをんをよぎる さくらづきよ こよひあふひと みなうつくしき) 作者と出典 この歌の作者は、 「与謝野晶子(よさの あきこ)」です。 明治・大正・昭和と激動の時代を生きた女流歌人です。 鋭い自我意識に基づく自由奔放で官能的な歌風は、当時の歌壇に大きな影響を及ぼし、近代短歌に新しい時代を開きました。 この歌の出典は、 1901年に刊行された 第一歌集『みだれ髪』です。 自由な恋愛はおろか結婚も許されない時代に、満 22歳という若い娘が大胆に性愛の悦びを表現したことで、社会に大きな衝撃を与えました。 現代語訳と意味 解釈 この歌を 現代語訳すると・・・ 「清水に行こうと祇園を通り過ぎると、桜が咲き誇る朧月夜。 今夜すれちがう人々は、誰もみな美しく見えました」 という意味になります。 京の春の一夜を、王朝的な雰囲気で歌い上げた美しい歌です。 「こよひ逢う人みなうつくしき」と感じるのは、作者自身の心も美しく、楽しいひと時を味わっているからでしょう。 与謝野鉄幹との出会いによる、晶子の至福の情感や心浮き立たせている様子が伝わってきます。 文法と語の解説• 「よぎる」 「よぎる」は、「通り過ぎる」または「道すがら立ち寄る」を意味します。 「桜月夜(さくらづきよ)」 「桜月夜」は、桜の咲く頃の月夜を意味しています。 明るく華やかなイメージがある昼の桜とは対照的に、夜桜には神秘的で妖艶な風情を感じさせます。 「桜月夜」は、月がほのかに霞んでいる情景を表す「朧月夜」と「桜」を組み合わせた、与謝野晶子の造語とも言われています。 「うつくしき」 「美し」の連体形である「美しき」を表しています。 あえて漢字ではなく、ひらがなで表現したことで柔らかい印象を受けます。 「清水へ祇園をよぎる桜月夜こよひ逢う人みなうつくしき」の句切れと表現技法 句切れ 句切れとは、 一首の中での大きな意味上の切れ目のことです。 この歌は三句目「桜月夜」で一旦歌の流れが止められていますので、 「三句切れ」です。 句目までは夜空に浮かぶ朧月と頭上で咲き誇る桜の花を見上げていますが、四句目からは行きかう人々へ視線が下に移っていくのがうかがえます。 連体止め 連体止めとは、 名詞に接続して連体修飾語で文を終える技法です。 係助詞を用いずに連体形で結ぶと、その後に何か続くように感じられるため、強調や余韻を残す効果があります。 この歌も結句が「うつくしき」と連体形で締めくくっており、なぜ美しいと感じたのか理由は明かされていません。 そのため、読み手はその後に続く「何か」を与えられた語から想像するようになります。 「祇園」や「桜月夜」から情景を思い浮かべると、夜桜を楽しむため着飾ってきた人々は、上気して満ち足りた表情をしていたのかもしれません。 それを見て、作者自身が感じた「美しい」という主観的な気持ちを率直に詠んでいます。 字余り 字余りとは 「五・七・五・七・七」の形式よりも文字数が多い場合を指します。 この歌も「さくらづきよ」部分が六音で、字余りとなります。 あえてリズムを崩すことで、結果的に意味を強調する効果があります。 「清水へ祇園をよぎる桜月夜こよひ逢う人みなうつくしき」が詠まれた背景 『みだれ髪』には妻子を持つ身であった 与謝野鉄幹との情熱的な恋愛の過程で生み出された歌が多く収められています。 その中で、晶子は積極的に人間性を肯定し、女性の官能をおおらかに歌い上げました。 京都といえば鉄幹が生まれ育った地でもあり、結婚前の二人が逢瀬を楽しんだ街でもあります。 この歌も 鉄幹と一緒に京都を訪れた際に詠んだ歌だといわれています。 もしかすると鉄幹と共に、夜桜見物へ行くところだったのかもしれません。 晶子の満ち足りた気持ちや期待が、目に映る全てのものを美しく見せています。 激しい恋歌に満ちた歌集の中で、この歌は恋する若き女性の初々しさやみずみずしさが表現されています。 この歌に出てくる桜は、円山公園にあった 「祇園しだれ桜」を詠んだのではないかといわれていますが、清水と祇園と桜の位置関係が事実と異なるようです。 そのため「桜月夜」は、のちに晶子自身によって「花月夜」に改稿されています。 しかし言葉の醸し出す印象からか、字余りであるにもかかわらず「桜月夜」のほうが支持されて広まっています。 「清水へ祇園をよぎる桜月夜こよひ逢う人みなうつくしき」の鑑賞 この歌は、 風情ある京都で、夜桜を楽しむ人が通り過ぎる道すがらの情景を詠んだ歌です。 「清水」「祇園」という言葉から、古都の情緒感じる街並みがイメージされます。 男女の華やいだ装いや、こっぽりの音を響かせて、そぞろ歩くあでやかな舞妓の姿を彷彿とさせます。 行きかう人々ももちろん私自身も「みなうつくしき」との肯定が、 晶子の高揚感を写しているようです。 この心の弾みは、「春」「夜」「桜」によって引き出されたものでしょう。 春の宵闇が迫る頃、桜の花が満開に咲く幻想的な月夜のためか、いつもの景色が違って美しく見えてくるのです。 「桜月夜」という雅な歌語が一首をまとめ、 人々の装いだけでなく心にまで変化をもたらしています。 いくつもの障害を乗り越えて鉄幹との恋を貫こうとする晶子ですが、そんな情熱をひめて「桜月夜」を歩く一人の女性の姿が浮かんできます。 作者「与謝野晶子」を簡単にご紹介! (与謝野晶子 出典:Wikipedia) 与謝野晶子( 1878年~ 1942年)は、明治・大正・昭和にかけて活躍した女流歌人で、浪漫主義文学の中心的人物です。 歌人だけでなく作歌・思想家としての顔も持ち、『新釈源氏物語』の現代語訳でも知られ、婦人問題・教育問題への積極的発言など、当時の社会に大きな影響を与えています。 本名は与謝野(旧姓は鳳)志ようといい、ペンネーム晶子の「晶」は「志よう(しょう)」からとったものでした。 1878年、大阪府堺市の老舗和菓子屋の三女として生まれ、堺女学校を卒業後は家業を手伝いました。 幼い頃から『源氏物語』など日本の古典文学に親しみ、「尾崎紅葉」や「樋口一葉」など著名な文豪小説を読みふけりました。 こうした経験がのちの執筆活動に生かされることとなります。 1895年ごろから歌を雑誌に投稿し始め、関西青年文学会にも入会し、新しい短歌を作りました。 1900年に開かれた歌会で歌人・与謝野鉄幹と出会い、鉄幹が創立した文学雑誌『明星』で短歌を発表します。 鉄幹の後を追い実家を飛び出した晶子は、上京の約 2ヵ月後に処女歌集『みだれ髪』を刊行します。 慎ましやかな女性が求められた封建的な時代において、青春の情熱を誇らかに歌い上げ賛否の嵐をまき起こしました。 日露戦争中の 1904年に発表した「君にたまふこと勿れ」では、従軍中の弟の身を案じ女性の立場から反戦を訴えます。 批判をうけるなか、晶子は「誠の心を歌わぬ歌に、何の値打ちがあるでしょう」と延べ、一歩もひくことはありませんでした。 鉄幹と結婚後は、 12人の子どもを育て上げました。 貧しい生活の中で家計をささえるべく奮闘しながらも、生涯にわたり詩作や評論活動と活躍し続けました。 「与謝野晶子」のそのほかの作品 (与謝野晶子の生家跡 出典:).

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