日本 の ポンペイ。 日本のポンペイ!?福井県越前「一乗谷朝倉氏遺跡」 : 長州より発信

日本のポンペイ!?福井県越前「一乗谷朝倉氏遺跡」 : 長州より発信

日本 の ポンペイ

噴火により埋没した「日本のポンペイ」と呼ばれる『黒井峯遺跡』 この黒井峯遺跡は「日本のポンペイ」と呼ばれる遺跡で、古墳時代後期(6世紀中頃)に榛名山二ツ岳の火山爆発によって噴出した大量の軽石で一瞬にして埋没した廃塊のムラ(災害遺跡)である。 発掘調査は昭和57(1982)年1月に初めて発見されて以来6回の発掘調査が行われ、軽石災害の生々しい状況と住居をはじめとした建物群がそっくり残されていたとのことである。 黒井峯遺跡では、火山の爆発により短時間で降り積もった軽石層に覆われたため、軽石層中に建物の壁、崩れかけた屋根、柴垣、網代垣等が立ったままの状態で保存され、また、建物の上部構造も復元できる程度に残されているなど、古墳時代後期の集落を構成するさまざまな遺構が後世の撹乱を受けることなく検出されている。 この黒井峯遺跡は、古墳時代後期の集落の実態をきわめて具体的に明らかにするなど、我が国の歴史を理解する上で重要な意味をもつものである。 このことから災害直前(6月頃)のムラの景観や人々のくらしを正確に知ることのできる遺跡として評価を受け、平成5(1993)年4月に国指定の史跡となった。 遺跡の広さは子持中学校を含む台地の平坦部を北側と谷を含めて約14万㎡が指定範囲となっている。 榛名山の火山爆発は古墳時代後期に「二度の大爆発」を起こし、そのたびごとに遺跡へ大きな災害をもたらしている。 一度目は6世紀初めで、長崎県雲仙普賢岳でみられた高温の砂嵐に似た火砕流が周辺一帯を何度も襲い、焼け野原にしてしまった。 発掘調査で判明したムラ跡はこの火砕流災害後に作られたムラである。 ムラは数十年続いたが、二度目の大爆発(6世紀中頃)で2mにも達する軽石層が建物や田畑などすべてを覆いつくしてしまった。 この二度目の災害の後はムラが再建されることはなく、埋もれたままで現在に至っている。 調査によって判明した事実は、軽石堆積層の中に建物(壁や押し潰れた屋根)、柵、垣根、などが閉じ込められていたことである。 また、厚い軽石層で保護された古代の地表面には畠、水田、道、境界、水場、樹木の跡など当時の人々の生活のありとあらゆる痕跡が残されていた。 ムラは竪穴住居一棟と垣根で囲まれた建物群(平地式住居や高床式倉庫、作業小屋、家畜小屋等が含まれた7棟~10棟程度)が一単位で、この中に数家族が住んでいたとみられる。 こうしたまとまりが遺跡全体で8~10単位ありムラとなっていた。 ムラの生活は牛馬の放牧と飼育を行いつつ、畠作、水田耕作を同時に行う複合農業と推定され、高度に発達した農業であることが判明したとのことである。 と、このように現地の看板を読んでいるとこの黒井峯遺跡はまさに『日本のポンペイ』と呼ぶにふさわしい、とても素晴らしい遺跡だと思うのだが、実際に現地を訪ねると遺跡はすべて埋め戻されているので現地に来てもただの原っぱである。 そして何一つとして遮るものや障害物がない「だだっ広い」広野の中で「ただ一人」で『上州のからっ風(いわゆる赤城おろし)』を「一身に受け止め」嫌でも「寒さが身に染みる」ことになるので、細心の注意が必要である。

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日本のポンペイと言われる群馬の榛名山とは? 古代の遺跡も発見?

日本 の ポンペイ

地理 [ ] 北緯6度54分、東経158度14分に位置し、の東南東約1,700kmに相当する。 平均直径約24kmの東西にやや長い円形の島で、海岸線は入り組んでいる。 周囲はが発達しており、内の25の小島と共に島のほぼ全周を囲んでいる。 面積は約330平方kmでミクロネシア連邦最大の島であり、全体の中でもとに次いで3番目に大きな島である。 地質時代の火山島に由来し、最高峰は島のほぼ中央に位置する標高798mのナーナラウト山(Nahnalaud、大きな山の意)で、ミクロネシア連邦の最高峰でもある。 その他にそのすぐ南にあるギーネニ山(Ngihneni、霊魂の歯の意)791mなど、500m以上の山々が中央部に聳える。 後述のように雨が多いために40本あまりの川があり、島の至るところに滝が見られる。 ケプロイ滝、ナンピル川のリトゥトゥーニヤップ滝が有名である。 本島の海岸線はほとんどが林であり、白砂の天然ビーチはポンペイ島には存在しない。 島の南西約10kmには 、北西約30kmにはがありダイビングスポットである。 海岸部のコロニアでの平均年降水量は4,900mm、降水日は平均304日である。 世界第一位とされる、太平洋のマッコーリー島の降雨日数、平均307日に続いて世界第二位とされ、世界的にも屈指の多雨地域である。 内陸部では年降水量9,000-10,000mmに達すると言われている。 1月から3月にかけてやや降雨量が少なくなるものの、一年を通じ満遍なく降雨があり蒸し暑い。 7月から11月は東または南東寄り、12月から3月には北東寄りのが卓越する。 7月から10月にかけてのの発生地域であるが、大きく発達して接近することは少ないので甚大な被害は稀である。 人口はの調査で32,178人。 Kolonia 、 Nett 、 U 、 Madolenihmw 、 Kitti 、 Sokehs の6つの地区に分かれている。 最も大きな市街地はコロニアにあり、までここが連邦の首都であった。 州都は現在もコロニアである。 なお、の州都もというが、そちらはColoniaと綴る。 首都パリキールはコロニアから南西に約8km離れたソケース地区にある。 小高い丘陵を切り拓いて作られた人口の街である。 歴史 [ ] 他の東カロリン諸島の島々と同様に、ポンペイ島の最も古い住人は、頃にから航海して移住した人々と考えられている。 島の南東部マタラニウムにある遺跡周辺では紀元前後の頃の居住跡が見出されている。 その後、からが建造され始め、頃から頃まで同地で ()が栄えた。 その後はネッチ、ウー、マタラニウム、キチ、ソケースの五つの王国 wehi に分かれて、それぞれがナンマルキと呼ばれる首長系統、およびナニケンと呼ばれる副首長系統によって治められてきた。 ナンマルキ等の位階の制度は現在も続いており、各首長はそれぞれの地区で今日も権勢を有している。 、の二度にわたり、のがフロリダ号を率いて太平洋を横断する際に、この海域の北緯6度ないし7度で島を目撃しており、これがポンペイ島またはその周囲の島に関するヨーロッパ人の最初の記録と考えられる。 確実な記録はのサン・ヘロニモ号によるスペインのの来訪であり、彼は上陸しなかったもののポンペイ島に多数の住民の居住していることや、西隣のアンツ環礁についても記録している。 のスペインの太平洋領有宣言、の同国の占有施策開始の後も、スペインの実効的支配はポンペイをはじめ他の東カロリン諸島には及ばなかった。 島はそれ以後もヨーロッパの航海者に何度か記録されるが、最初の上陸の記録は不明である。 初めからは、島は捕鯨船や商船の補給地として用いられ、数多くのヨーロッパ、アメリカの船が訪れ始めた。 前半には年間5隻程度の来訪だったのが、には年間100隻を超えている。 これらの来航は島民との間に摩擦を生じることもあった。 特にのではマタラニウムの首長をはじめ、多数の住民の死者を出した。 更に船員達からもたらされた病気も深刻な影響を与えた。 は初頭から流行が始まり、の流行では半年間に2,000〜3,000名の死者を出した。 には10,000人を超えていた島の人口は、後半には約2,000人まで減少している。 この後も、等の流行が散発した。 他国の影響力増大を危惧したスペインは、にポンペイをはじめとするカロリン諸島の支配を強化し、交易権の確保を図った。 はこれに反発して、に戦艦を送りポンペイの領有を宣言した。 これに対しては、教皇の仲裁でスペインとの和解が成立し、ドイツは見返りとしてこの海域での交易権と漁業権を得ている。 翌にスペインは、現在のコロニアの地をサンティアゴ・デ・ラ・アセンシオン Santiago de la Ascension と名付け、政庁を置いて正式領有を宣言した。 ここにポンペイの100年に及ぶ外国支配が始まる。 スペインは性急な植民地政策の確立を図ったが、上述の伝染病流行等の不安定な社会状況や、伝統的な首長制度との確執により、大きな成果は得られなかった。 、の敗戦により、スペインはこの地域の権勢を失い、これを受けてにドイツがグアムを除く、とともにカロリン諸島の権益を2,500万ペセタで買収した。 「ポナペ」の名前はドイツ占領時代に付けられたものである。 ポンペイにおけるドイツの植民地政策は、当初は産業の振興等、経済発展を視野に入れた懐柔政策だったものの、次第に伝統への介入・否定や、インフラ整備のための強制労働の法制化等、締め付けの厳しいものになり、住民の不満が高まっていった。 その中、にはソケースの有力者が労働拒否により笞刑に処されたのをきっかけとして、住民が蜂起する()が起こった。 知事らを殺害されたドイツ側はより「」を出動する大掛かりな鎮圧により、翌に反乱は沈静化した。 首謀者15人が処刑の上、ソケースの土地は植民地府に接収された。 420名余りの住民はに強制移住させられ、その一部は更にの強制労働に就かされた。 、第一次世界大戦の際に、は4隻の艦船をポンペイに入港、無血で占領した。 大戦終決後のにはによって、日本の(C式委任統治)が認められた。 日本の占領政策はこれまでの支配と異なり、同化政策をとったが島民に日本国籍は与えられなかった(婚姻は別)。 同時に当地での農業、漁業を中心とする殖産興業が推進された。 特にに支庁の設置により、日本からの移民も多数ポンペイに入植し、の終戦時点では13,000人を超す日本人が居住していた。 これはパラオ、に次ぐ三番目の規模である。 日本海軍はに守備隊を初めてポンペイに駐屯させたのに続き、開戦後のには本格的な警備隊を配備した。 それ以後も陸軍、海軍が兵力を補塡して、西のトラック島()にあった海軍の一大拠点の防備を担った。 これに対しはの大規模な空襲に始まり、5月にかけてポンペイに攻撃を加え、コロニア市街は大きな被害を受けた。 トラック基地が空襲で機能を失い、主戦場がマリアナ、に移った同年6月以降、ポンペイは輸送の途絶した状況になったが、鮮魚や芋等の食料自給が可能であったことと、それ以後大きな攻撃を受けなかったことから、終戦までの1年余り比較的平穏な状況が続いた。 の太平洋戦争終了により、アメリカの占領が始まり、にの領としてアメリカの統治が始まった。 ポンペイはパラオ、ヤップ、トラック(チューク)とともに四つに区分けされた地区の中心として、当初から政庁が置かれた。 アメリカの統治方針は「zoo theory」と揶揄されるように、経済的な援助はするものの、産業育成による自立支援は行わなかった。 、アメリカは国連の要請を受けて、ミクロネシア議会の発足を認めた。 当初、議会はマリアナ、マーシャル、パラオを含めた形でサイパンにおいて開催され、ポンペイに移ってくるのはのことである。 には現在の4州で連邦を構成、には憲法が制定され自治政府が誕生した。 に独立してからは、ポンペイは連邦の首都機能を有している。 民族、言語 [ ] ミクロネシア系の住民が多い。 民族としてはかつてカナカ人と呼ばれていたが、やや蔑称的に用いられた経緯から現在はあまり用いられない。 一般的には Pohnpeian と呼ばれることが多い。 カロリン人 Carolinian の呼称は稀である。 公用語は英語であるが、普段の生活ではが広く用いられている。 この他、、等が用いられる。 戦前生まれの人は日本語を使えるが、その数は少なくなっている。 日本語から転用されて用いられている生活用語も少なくない(タワシ、キューリ、チチバンド等)。 プロテスタントはがほとんどである。 教育、文化 [ ] 8年制のエレメンタリー・スクールが島内に公立30校、私立が6校。 高校は公立が3校、私立が4校ある。 ミクロネシア連邦で唯一の大学、カレッジ・オブ・ミクロネシアの本部がパイエス(パリキルの少し先)にあり。 分校がコロニアにある。 Piper methysticum のことをポンペイではシャカオ(サカオ、Sakau)と言い、この根を叩いて絞り出した汁を回し飲みする、シャカオの儀式が有名である。 元々は様々な儀式に用いられていたものであるが、現在では民衆に広く飲用され、コロニアをはじめ数多くのシャカオ・バーがある。 沈静作用があり、眠気を催す。 コロニア西方のポラキエット地区には、ドイツ統治時代にから移住してきたポリネシア系の人々の集落、通称カピンガマランギ村がある。 木彫等の民芸品が有名である。 主食はであるが、、等の芋類もよく食べられる。 日本の統治時代の影響で、生の魚を刺身で食べる食文化も一般的である。 産業、経済 [ ] ミクロネシアで最も貨幣経済が発達しているが、伝統的な自給自足経済も混在している。 生活必需品は他州と同様、多くを輸入に頼っている。 主要産業は、、、等の農産品、水産業である。 近年、観光業、特にエコ・ツーリズムにも注力しつつある。 石鹸、胡椒等の特産品がある。 グアム銀行の支店とミクロネシア連邦銀行の本店がコロニア市内にある。 これは主に森林を切り拓いてのシャカオの栽培が広がったためである。 土砂の流出はマングローブ林、珊瑚礁にも影響を与えている。 知られている767種類の植物のうち、111種が固有種である。 河川には淡水産ハゼの固有種が多数存在する。 鳥類の固有種は5種。 クロヒラハシ Myiagra pluto 、ポナペオウギビタキ Rhipidura kubaryi 、エビチャインコ Trichoglossus rubiginosus 、ハシナガメジロ Rukia longirostra 、ヒメカラスモドキ Aplonis pelzelni 、このうちヒメカラスモドキは絶滅が疑われている。 マミムナジロバト Gallicolumba kubaryi はポンペイ島とチューク島のみに残存数百羽の絶滅危惧種。 在来種の哺乳類はマリアナオオコウモリ Pteropus mariannus 一種のみ。 通信、交通 [ ] ケーブルテレビ局が1局、ラジオ局が5局ある。 国内外の電話、インターネットサービスをほぼ一手に引き受ける、FSM Telecommunications Corporationの本社がコロニアにある。 ののルートで、グアム島(チューク経由)から週3便が、その折り返しがから週3便と、グアムから来てグアムへ戻る夜中便が週1回ある。 はコロニアの北西のタカチク島にあり、コロニア市街とは埋め立て道路でつながっている。 の空港コードはPNI。 州内の他島には、連邦政府が運航する約3ヶ月に一度の船便によって物資を輸送している。 その他、米国西海岸とアジアを結ぶ国際貨物船の便も数社がポンペイを経由している。 島内を一周する道路は総延長85kmで、1986年に整備完了した。 公共の交通機関は無いが、乗合タクシーがその役目を果している。 関連項目 [ ]• - 島には浦島太郎伝説があり [ ]、ナンマトル遺跡と結び付けられることもあるが、懐疑的な見方もある(参照)。

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日本のポンペイ!群馬・鎌原村 天明3年の浅間山大噴火の痕跡を辿る旅

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先日【ブラタモリ福井・一乗谷編】の再放送を観て、福井県越前に京の文化を積極的にとり入れ北陸の小京都とも呼ぶべき城 下町を築きながら、みやびやかな文化の華を咲かせた「西の京 山口」と類似した「北の京 一乗谷」の存在を知ることが出来ました。 応仁の乱により荒廃した京から多くの公家や高僧、文人、学者たちが避難してきたため一乗谷は飛躍的に発展し、城内1万人という戦国時代屈指の巨大都市になり、華やかな京文化が開花しました。 当時の京にすら勝る一乗谷を、人々は北の京呼びました。 戦国時代、織田信長に滅ぼされるまで100年に渡りこの地を支配した戦国大名・朝倉氏の館と城下町の跡地だ。 天正元年(1573年)8月18日、信長率いる織田軍は、柴田勝家を先鋒として一乗谷に攻め込み、居館や神社仏閣などを放火しました。 この放火は三日三晩続き、この繁栄極まる巨大都市が灰燼に帰しました。 信長に燃やされて以降、一乗谷を任された柴田勝家はここに城を構えなかったため、やがて一乗谷も辺境の地となり、400年間地下に眠っていました。 戦国大名・朝倉孝景から5代103年にわたり越前を支配した朝倉氏。 5代目当主の義景は浅井氏と同盟を組み織田・徳川軍と激突。 1573 天正元 年の刀根坂の戦いで大敗後、義景は自害。 朝倉家繁栄もここで幕を閉じました。 【上城戸と下城戸】 一乗谷は自然の要害として知られていますが、城下町の防衛のため、谷がもっとも狭くなる南北2箇所に土塁を築き、「城戸(きど)」と呼ばれる城門を置きました。 南側の城戸を「上城戸(かみきど)」、北側の城戸を「下城戸(しもきど)」と呼びますが、これは京に近いほうを「上」とするためです。 また、土塁の外側には幅12m、深さ3mを測る素掘りの堀が築かれていました。 長さは当時50mもありましたが、現在は道路により一部が削り取られているため、およそ38mです。 城戸の外側にあたる土塁北側には、幅約10mを測る堀がつくられていますが、深さについては不明です。 土塁の西側には巨石を組み合わせた通路があり、ここが城下町への出入り口となっていました。 またこの城戸は外側から町の中が見通せないように矩折り(L字形)につくられているのが最大の特徴です。 それ以外、湯殿跡庭園、南陽寺跡庭園、諏訪館跡庭園、朝倉館(義景館)跡庭園4つの日本庭園が国の特別名勝と指定されています。 自刃を決意した光秀は、生きて明智氏を再興するよう城代の叔父・明智光安に厳命され、妻や僅かな家人を連れ越前を目指した。 苦難と貧苦に満ちた流浪の旅である。 美濃を追われた明智光秀は、朝倉義景を頼って越前にやってきた。 そして称念寺(福井県坂井市)の門前で10年を過ごす。 ここでに妻子と住み、娘、明智玉子(細川ガラシャ)も誕生したと云われています。 光秀は医学の知識に長けていたということがわかってきました。 一乗谷は医学の最先端都市だったようで、光秀は朝倉氏秘伝の薬についても知っていて、医学を通して朝倉氏と密接に関わっていたと思われます。

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