横山 長 知 と は 前田 家 の 家臣 で ある か か。 二人の「長知」〜太田但馬守誅殺事件〜

加賀藩歴代藩主とその姫達

横山 長 知 と は 前田 家 の 家臣 で ある か か

ヨコヤマ 解説 和泉 武蔵 近江などに横山庄、又 遠江 駿河 上総 陸中 陸前 羽前 越後 丹波 周防 薩摩 大隅などに此の地名あり。 秋田県横手市、福島県須賀川市、新潟県柏崎市、同 新発田市 栃木県宇都宮市、茨城県古川市、群馬県桐生市、長野県長野市 神奈川県相模原市、兵庫県三田市、岡山県津山市、島根県 浜田市、福岡県柳川市にこの地名あり。 家紋、万字。 *小野姓横山党略系図に「敏達天皇八代の後裔 参議 小野篁 八代の孫 従四位 武蔵守隆義の男 義孝」とあるが義孝 義隆 の父に隆義は、いない。 武蔵の横山氏は、武蔵国造の一族にて、 当郡郡領なる大伴直から分かれし氏で、小野郷に住みて、小野を称し、小野神社を創立し、 小野御牧の別当として横山の地 八王子近辺 に居住せしならん。 上記、横山時広は、頼朝に従い、奥州 藤原泰衡を討つ。 時兼は、鎌倉幕府の御家人で、 和田義盛 時兼の妹は義盛の嫡男常盛の妻 の乱にて敗れ、甲斐国板東山償原別所で自害。 よじ登ること凡そ二三町程にて、頂に至れば高手なり、眺望いとよし。 永禄十二年、 武田信玄 小田原へ乱入の時、今の名主 忠左衛門の先祖 横山式部少輔弘成、ここに 砦を築いて、北條家の為に守れりと云う。 小田原記を按ずるに、信玄はこの時平間を 渡って、稲毛十六郷を放火せしこと見ゆ。 この辺も、かの十六郷の内なるにや」と。 又、「上菅生村 横山氏。 先祖は式部少輔弘成と云う、弘成は、小田原北條家の家人にて 行方弾正に属せり。 永禄十二年、武田信玄、この辺へ乱入の時、田島兵部左衛門之房、 駒林図書定朝等と同じく 壘にこもりて、防戦せし事、諸記録に載る所なり。 かの時 立て籠もりしは、村内升形山の城なるべし。 この近郷に横山を氏とするもの若干あり。 皆忠左衛門の家より別れしものなりと云う。 案ずるに、下菅生村の本遠寺の過去帳に 『六種院宗円日心大居士、永禄二年八月二十六日、横山式部少輔八十歳』とあり、これ 弘成の父なるにや。 今、忠左衛門の家伝を尋ねるに『桂浄日久信士、慶長八年九月七日』と あるもの古しと云う。 これは将監と称せしものの法諡なりともいえど そのまことを 知らず」とあり。 藤原姓と云い、家紋 丸に雪根笹、丸に一文字なり。 又、那珂郡東野村池殿神社祠官の横山徳馨は、勤王の志士として知られる。 又、江戸時代 安中 板倉藩年寄に見え、 又、桐生の俳人に横山恒庵見佐あり。 又、「旧家 善八。 この村の名主にして、山内氏勝の家臣 横山帯刀某と云う者の後裔なり」とあり。 又、伝え云う「大沼郡大塩村 旧家 長右衛門。 山内家臣 横山帯刀道吉の二男 能右衛門道信の 八代の孫なり。 氏勝の時、六十里越、八十里越 両口を固めし」と云い、 「八木沢村の白幡神社 神職横山左仲。 父を大和依弟と云う、寛政中、当社の神職となる」と。 家紋 三柏葉、黒餅に右萬字。 先祖 五郎助清範 幕府の御賄方 、その養子 伝右衛門 中村氏 なり。 横山太郎兵衛正利、江戸幕府に仕う。 又、家康の家臣に横山源助清正あり、家紋、輪違。 第9項の正勝の父なり。 新撰志に「横山山城守長知は、ここの 生まれにして、前田家に仕う。 数々軍功ありて、終に加賀の国老となる」と。 又、江戸時代、加納永井藩の家老、添え役などにこの氏あり。 又、中興系図に「横山。 佐々木定綱の末、高島高信の孫 頼綱 長男 三郎頼信これを称す」とあり。 横山村の横山城は、横山下野守居城す、織田信長の為に落城す。 これらの地名を名乗りしもあらん。 蒲生郡の横山喜内は、蒲生氏郷に従いて、奥州塩川城 一万三千石を領し、蒲生喜内と改名す。 後、蒲生備中真令と称し、石田三成に仕う。 その男 大膳、共に関が原に死す。 又、伊香郡横山村に横山大明神あり、私考に「横山和泉の氏神、神主 横山氏 和泉守と別系 」とあり。 この横山大明神を縁にして 横山を称す者もあらん。 その男 信房は、波多野氏に仕え、天正中、明智氏の為に落城す。 丹波志に「天田郡宗部郷、横山香雲、子孫 堀村。 江川に住み、横山に掻き上げの城を築き住み、 横山殿と云い、称号に改めたりと云い、又、横山姓故に地名を改むと。 香雲の石碑は、水落と云う 所にあり。 横山大膳、明智光秀の為、落とされ、兄弟五人あり。 三代 孫右衛門云々。 本家 又三郎、 分家 九軒、元 塩見氏なり」とあり。 泉州 横山にて 五百石を領し、その地に住す。 その後、根来寺に与力し、 根来没落の時に、野上八幡山の戦いに堀源八と云う者を討取り、その身も傷を蒙りて、死す。 その子を次郎大夫と云う。 当村に来り、世々この地に住す」とあり。 又、新宮社の僧に横山覚泉院、横山良泉坊等あり。 元親の若手家老に横山九郎兵衛あり。 又、香宗我部 家臣に横山喜太夫あり。 又、幕末、安芸郡下山村の志士に横山英吉正利 安之助 あり、従五位を贈られる。 当島は、上古 山城国の男山八幡宮の封戸にて、野口氏 世々 その司たり云々。 後、采地を横山に賜う。 その子を安房と云う。 惟宗、島津 忠久、安房に命じて 当島の地頭職とし、横山城にあり、 よって横山を家号とす」と。 関山は、天文の頃、 東藤山に作る。 横山民部、所守と云う」とあり。 又、「鈴張村の横山氏。 先祖 横山右馬助真高は、大内の家人たり。 その裔 数家に分る。 真高の受領状を蔵するの家あり」と。 又、「広島府播磨屋町の草津屋。 祖 横山吉右衛門は、佐伯郡草津村に居る。 その子 猪兵衛、 出でて今の宅に居る。 家、初めは酒造を業とし、後、世々 陶器を売る。 今の彦九郎まで十代」とあり。 証文 左に挙ぐ。 神名 名は略す 右 百二十二社は、従前より奉仕社たるの旨、即ち、御快面に之を記され候條、社務 相違ある べからざる者也。 鈴鹿丹波守隆、鈴鹿下野守 在 江戸 、鈴鹿筑前守雄、横山主税之介殿」とあり。 又、横山氏略系に「藤原姓、その祖、梶並氏にて、菅原姓なりしを、中古、吉野郡五名村の 横山城主 横山式部大輔と云う者、来りて家を継ぎ、姓氏を改むと云う。 又、皆木と唱えしことも有り。 横山式部大輔景信、康正元年生、天正十八年死、八十七歳。 大蔵大輔常盛、左近大夫峯盛、 左近大夫家盛、宮大夫秀盛 改 皆木 、河内守景家 復 横山 、主税介景久、遠江守景隆、讃岐保民、 左馬助景敷、右衛門景包」とあり。 村内に大宝寺屋形 武藤家支族の別居せし邸館あり。 没落の年代詳ならず。 地名辞書などに 「横山城主は丸岡より移り、押切備前守と云う、天文の頃の人か、その後、藤島より 横山を攻め、押切備前に代わる、これを横山大膳と云う。 永禄中か。 天正中、悪屋形、 大膳を殺し、武藤茂兵衛、これに代わる」と。 26,他.

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横山 長 知 と は 前田 家 の 家臣 で ある か か

加賀百万石の政治力を今に伝える巨大な大名墓 前田利家以降、歴代藩主とその正室、子女のほとんどは野田山の前田家墓所に葬られ(合計約80基)、前田家墓所の周囲には重臣の加賀八家(かがはっか)のうち本多家、前田長種家を除く6家(長家、前田土佐守家、奥村宗家、奥村支家、横山家、村井家)など家臣の墓が造られています。 大河ドラマ『利家とまつ』で一躍有名になった芳春院(まつ)は、加賀藩主前田家墓所と大徳寺芳春院(分骨)に眠っています。 山上にある前田家の大名墓は、土を盛り上げた土饅頭(どまんじゅう)形式で、藩主の墓は3段に盛り上げた方形墳の周囲に溝がめぐらせるという独特の形。 大きさも藩祖の前田利家墓で一辺19m、他の藩主墓でも一辺16mと、他藩では類を見ない巨大な墓となっていて、江戸時代最大の大名家の政治権力を偲ばせるものとなっています。 後に金沢の町民の墓も築かれるようになって、野田山墓地が誕生したのです。 室生犀星(むろうさいせい)、鈴木大拙(すずきだいせつ)、四世嵐勘十郎(あらしかんじゅうろう)も眠る金沢市営墓地、戊辰戦争から太平洋戦争に至る戦没者の戦没者墓苑もあり、総面積は兼六園の4倍、東京ドームの10倍もあります。 加賀藩主前田家墓所は成巽閣(せいそんかく)が、戦没者墓地は石川県が管理しています。 野田山の加賀藩主前田家墓所は、富山県高岡市の前田利長墓所とともに国史跡になっています。 ちなみに二等三角点の置かれた野田山の山頂には、野田山三角点古墳という古墳が、さらに山麓には前方後円墳の長坂二子塚古墳(ながさかふたごつかこふん)あり、一帯が古代からの聖地だったことがわかります。 野田山・加賀藩主前田家墓所 DATA 名称 野田山・加賀藩主前田家墓所/のだやま・かがはんしゅまえだけぼしょ 所在地 石川県金沢市野田町野田山 関連HP 電車・バスで 金沢駅から北陸鉄道バス大桑住宅行きで25分、野田下車、徒歩8分 ドライブで 北陸自動車道金沢西ICから約9. 5km 駐車場 あり/無料 問い合わせ 金沢市文化財保護課TEL:076-220-2469/FAX:076-224-5046 掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 授業で習った「カルスト地形」。 地表に露出した石灰岩が雨水などで浸食されて誕生した地形のこと。 実は、日本各地にこの石灰岩地帯はあるのですが、日本三大カルストと呼ばれる大規模な奇観は、有名な秋吉台(山口県美祢市)、四国カルス... カテゴリ: ,• 日本一高い山は、富士山ということは知られていますが、では2番というと・・・。 案外知られておらず、南アルプスの北岳で標高3193m。 山男ならベスト3はスラスラのはずですが、実は、近年、3番めは、奥穂高岳(北アルプスの最高... カテゴリ:• 商売繁盛、芸能上達の神様として知られ、繁華街などにも祀られているのが「お稲荷さん」と通称される稲荷神(いなりのかみ、いなりしん)。 日本三大稲荷とされるのが、伏見稲荷大社(京都市)、笠間稲荷神社(茨城県笠間市)、そして豊川... カテゴリ: , ,• ダムの大きさは堤高でも表現しますが、その機能を考えると総貯水容量も大切。 水がめの役割は、発電だけでなく、上水道、工業用水、農業用水、さらには洪水防止と多目的に活用されているのです。 さらに加えて、湖上遊覧など観光スポット... カテゴリ:• かつて「ミツバチ族」と呼ばれたライダーや、鉄道と徒歩で北海道を周遊した旅人は、冒険心、探検家スピリッツにあふれていました。 そんな時代の若者たちが選んだ、北海道の最果て(あくまで当時の最果てですが)の岬が、北海道三大秘岬... カテゴリ:• 2019年6月15日(土)12:00頃〜、香川県まんのう町で『満濃池ゆる抜き』が行なわれます。 香川県最大のため池、満濃池の池の水を抜き豊作祈願の儀式を行なう、江戸時代以前から行われている行事で、讃岐平野の本格的な田植え... カテゴリ: ,• 明治42年に豊後電気鉄道によって別大電車(別府〜大分間は明治33年開業/昭和47年廃止)の電力供給、さらには大分町などへの電力供給ために建設された発電所の跡が、豊後大野市の沈堕の滝(ちんだのたき)横にある沈堕発電所跡。 カテゴリ: ,• 平成6年に竜神峡に架けられた歩行者専用の吊り橋「竜神大吊橋」は、12年の長きにわたって日本一の地位を守りました。 それに代わって1位となったのが九州・大分県の九重"夢"大吊橋。 平成18年10月30日に日本一を奪取し、多くの... カテゴリ: , , , , , , , , , ,• 塔と桁とを斜めに張ったケーブルでつないで桁を支える構造の橋が斜張橋(Cable-stayed bridge)。 吊橋に似ていますが、塔と桁を斜めに張ったケーブルで直結している点が異なります。 景観にも馴染みやすく、その美し... カテゴリ:• 6月14日は、加賀藩の藩祖・前田利家が金沢城に入城した日(『尾山神社誌』による)、大阪市の住吉大社で『御田植神事』、手羽先店チェーン「世界の山ちゃん」がオープンした手羽先記念日、新島襄が箱館(現・函館)からアメリカに出航... カテゴリ:.

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横山 長 知 と は 前田 家 の 家臣 で ある か か

但馬守、1万5千石 前田氏家臣。 長知の母は芳春院の姉であり、加賀藩第2代藩主前田利長の従兄弟にあたる。 天正15年(1587)豊前巌石城の戦い、同18年(1590)武蔵八王子城攻撃で軍功をあげた。 慶長5年(1600)利長の大聖寺攻めに従い、帰途浅井畷で丹羽長重の攻撃を受けた時、殿軍を勤めて奮戦した。 同7年(1602)利長の命を受けた横山長知に殺害された。 3万石 天正10年(1582)父長隆とともに前田利家に仕える。 慶長4年(1599)利長が家康から謀反の嫌疑を受けた時、弁明に赴き、前田家は事なきを得た。 一時、利長の咎めを受けて京都に閉居したが、大阪の陣のときに許され、その後は加賀藩の執政として国政を預かった。 殺害したのは利長の命を受けた横山長知。 利長は最初、山崎閑斎と横山の二名に太田殺害を命じていたが、山崎は約束の時間に遅参したため、横山は、助太刀として連れて行った御馬廻組の勝尾半左衛門とともに太田を成敗した。 成敗のようすは諸本によって異同はあるが、『象賢紀略』には、このとき、太田は横山の帷子を斬り、助太刀の勝尾へも肩に一太刀あびせ、更にその場にもう一人いた者(「大膳普請奉行」とある)にも、転んだ拍子にその脛を脇差があたり、都合3名に怪我を負わせて、必死で防戦した、とある。 後々人々はこの太田の奮闘ぶりを賞賛したという。 また、『可観小説』の「一、太田誅せらるヽ事」(可観(2))では、ここに、更に長刀を手にした利長が登場し、止めを刺す。 利長は「主人の目をくらます不届き者め!」と太田に罵声をあびせ、長刀で太田を突いた。 太田は言葉も出せずにただ首を振るばかりであったが、やがて事切れた。 浅井畷の戦の後にはその戦功をねぎらって感状を送られており、利長にとっては功績者の一人といえる。 その太田を利長は何ゆえ殺害しなければならなかったか。 『石川県姓氏歴史人物辞典』などでは「その理由は未詳」としている。 また、太田誅殺は間もなく近隣の国々にも知らされたようで、隣国越後の堀秀治(「仍太田但馬事被仰付候事、実候哉、・・・中納言殿へ以書状可申上候へ共、慥之義不存候条・・・」横山大膳宛)や新発田城主溝口秀勝(「太田但馬殿義不届族御座候に付而被仰付様に承驚入存候・・・」利長宛)が、慰問しているが、その書状はいずれも事情が飲み込めず、困惑気味である。 〔三壺聞書〕太田但馬御成敗之事 ・・・但馬居屋敷露地の内にて狐の子を狩出し捕へ、色々になぶりさけばせければ、親狐とおぼしくて、堀の上にあがり身をもだへてさけびけり。 猶面白く思ひて、脇指をぬきひたなぶりにして、終に殺し捨てければ、親狐是を恨み、何処共なくうせ、夜る夜る来てさけびけるが、或時御城にて御能有之節、御広式女中方はみすの内にて見物也。 其の女中の中に但馬を見初め、扨々器量のよき人やと殊の外ほめなし、能は不見して但馬に目を放さず守り居たりけるを、出頭の女中是を見て御耳に入れ奉る。 誠に女はつれなき心中かな。 彼の但馬をほめたる女中、御前うとくなりしを心に懸けて有りけるが、或夜女中部屋の縁通りを忍びたる躰にて塀を越えて出づるを、利長公一両度御覧有しが、扨々にくき次第と思召し、山崎閑斎・横山山城に但馬を可討と被仰渡、日限を極め支度を致し、但馬登城を待居たり。 閑斎は時刻失念にてや有りけん遅参に及ぶ。 其の内に但馬登城し、御式台を過ぎて廊下より御広間へ出づる所を、山城御意也とて抜打に討ちければ、大げさに切られながら、心得たりとぬき合わせける所へ、勝尾半左衛門出で助太刀を打ち、二の刀にて横山討ち討留めける。 利長公御感ありて、但馬死骸を城中極楽橋の爪に置かせられ、主君の目をぬく徒者の果を見せしめよと被仰出。 但馬に恋慕の女房、一味の女五人御露地の内に縛り置き、宮崎蔵人に被仰付、竹の筒にて目を打出し、其の後殺害日仰付、山城は御加増を被下ける。 ・・・ 〔可観小説〕一、太田但馬誅殺せらるヽ事 (注:先に取り上げた話とは別に『可観小説』ではもう一つ太田の誅殺の話を載せる。 こちらを「可観(1)」とする。 ) ・・・或時但馬鷹野に出かけるに、路傍に狐の子あそべり。 但馬捕之云様は、人を悩す妖獣の子也。 嬲殺しにせんとて打擲し、終に狐児を殺せり。 おや狐見之大に愁えへ、頓て但馬が下女に詑し、狂妄して云様は、罪なき我子を嬲殺せり。 此怨念何方へ行べき哉。 みよ近日太田を殺し思ひ知らせんと云けり。 其頃利長卿寵愛第一の妾あり。 城外に屋敷を構て入置、折節忍びて通はれけり。 或夜其所へ忍びけるに、奥の方に一人の男子みえたり。 太田但馬とみえて庭中へ逃出たり。 黄門不思議におもひ、但馬を疑ふ。 然共黄門舌頭へも出し不給。 其後又妾の所へ通ひけるに、又但馬忍べる躰にみえて行方不知成たり。 今は腹にすゑかね、横山山城に命じ、実否糾明もなく、一旦に妾も但馬も誅殺せられけり。 皆人不審し哀れ悲めり。 但馬其夜は高山南坊宅へ招請せられ、夜更る迄酒宴に及びければ、寵妾の方へ可通様もなし。 其上深閨の内、誰人か可到様はなし。 然るに何の詰問もなく、火急に誅殺成けり。 後日に能穿議ありければ、件の妖狐の所為なりとて、黄門甚後悔せられけると也。 『三壺聞記』も『可観(1)』も太田は狐の子を殺した報いで殺されたことになっているが、狐に化かされたのは太田だけではない。 利長もまた狐に化かされていたことになる。 ことに『可観(1)』では、取り調べもないまま太田を殺害してしまったのを、狐の所為と知ったとき、利長は深く後悔している。 また、玉藻の前の話のように、太田が通っていた利長の妾が狐なのではない。 一連の事件の演出が狐によるものとしているのであり、いわば催眠術にかけられたような状態で、妾も太田も利長も「動かされていた」のである。 さらに『三壺聞書』では、狐を殺した太田がその報いで死んだ話とは対照的に、その後半で、狐の恨みを結果として晴らす形となった横山の幸運(横山家が栄えたこと)が記されている。 これは、畜類といっても、むやみにいじめるとその報いは必ずあるといった、単なる「教訓」を物語っているだけなのだろうか。 いったいこの「狐」とは何ものであるのか。 『三壺聞記』も『可観(1)』も、この事件の百年余後に書かれたものであり、すでに事件の真相はあいまいなものになっていたとしても不思議ではない。 原因の不確かさゆえにこれは狐の仕業であると片付けてしまったのか、それともこの事件の陰に「大きな力」が働いていたことを暗に言い含めているのであろうか・・・。 『可観小説』には狐の話とは別に、もう一つの「太田但馬誅せらるヽ事」(可観(2))がある。 その中に、原因の手がかりともいえそうな記述がある。 それによると、太田は関ヶ原以後江戸への御使を勤めていたが、家康がたいそう懇意にして、浅井畷のことを尋ねたりして饗応し、馬や刀などまで下された。 利長はこれを聞いて「如何思召候や」、横山と山崎に太田の殺害を命じたというのである。 将軍家と誼を通じることは前田家にとって決して不利なことではない。 だが、個人的に馬や刀を下賜されるほどに実懇になったことで、かえって利長は危機感をつのらせたのではないだろうか。 ひょっとして関ヶ原前夜の家中の動揺にまで太田は言及しているのではないかと・・・。 また、『象賢紀略』では、太田側の人物、横山側の人物として十数人の家中の者の名を上げている。 太田側の人間として、中川宗半(光重)、篠原出羽(一孝)ら十数人、横山側の人物として長九郎左衛門、高山南坊(右近)ら十人余を上げている。 前田家中の錚々たる人々である。 太田は数々の軍功を上げ、智謀もあって力量も人に勝っていたというから、人をひきつける力のある人物であったのだろう。 慶長5年(1600)の大聖寺攻め以来、家中には太田に肩を並べるものがいなかったという。 時には主君をないがしろにするような驕った振る舞いもあったのかもしれない。 そういう太田を快く思わないものもいたであろうし、双方の確執を太田の殺害ということで決着をつけたことも、おおいに考えられる。 この事件の前年(慶長6年)9月には、徳川秀忠の女子々姫(珠姫・天徳院)が利長の養嗣子猿千代(犬千代・後の利常)のもとに輿入れしてきており、公儀の手前、家中が二つに分かれることはなんとしても避けねばならないことであった。 さらに、前出の狐の話のところでも利長の妾について触れていたが、『象賢紀略』に、太田が殺された後、御手掛衆(妾)の「おいま」をはじめ、中使の者5人が目を抜かれ、見せしめとして家中の人持衆十人ほどに示したと記されている。 どうやら太田殺害の直接の原因は、太田と利長の妾との不義密通といえそうである。 太田粛清にあたって、横山と共に利長の命を受けた山崎閑斎は、約束の時間に遅参し、直接殺害には関与しなかった。 そしてこの事件の後、それまで兄弟のように仲の良かった横山との仲が悪くなったというが、それは連座した女中の中に山崎の縁者がいたせいであろうか。 太田の不義密通、あまりに懇意になりすぎた家康(幕府)と太田との関係、家中が二つに割れる危機。 これらが複雑に絡み合って結果、太田の誅殺となったのではないだろうか。 殺害を実行する10日程前に、利長は横山に太田殺害を命じたそうであるが、その時「大膳被申分、利長公被仰分、色々さまざま之儀、後にきこえ申候事」(『象賢紀略』)と、利長と横山の間でもこの件に関してさまざまな議論があったと後に言われるくらいで、ことは秘密裏の内に実行された。 隠し通さねばならない。 そのために作り出されたのが先の狐の話だったのではなかったか。 狐の報復による奇異な事件とすることで真相を闇に葬り去る必要があったのではないだろうか。 真相が解明されない不可解な事件だけに、殺された太田に同情する者がいたり、ひいては利長自身がそれを悔やんだりといった話が出来上がったのだろう。 百万石の光の裏には、深い闇があった。

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