ジャンヌ ダルク 映画。 ジャンヌ・ダルクはフランスの国民的ヒロイン!その悲惨すぎる最期とは

映画「ジャンヌダルク」ネタバレ!あらすじや最後ラストの結末や動画は?

ジャンヌ ダルク 映画

ジャンヌ・ダルクが聞いた神の声とは?なぜ戦争に参加した? ジャンヌ・ダルクは、15世紀前半に活躍したフランスの軍人です。 フランスとイギリスの間で1337年に勃発した百年戦争で活躍した奇跡の少女として世界的に有名なジャンヌ・ダルクですが、軍人の娘として生まれたわけではなく、片田舎で農村の娘として暮らす普通の少女でした。 そんなジャンヌ・ダルクが百年戦争に参加するきっかけになったのは、12歳の時。 「イングランド軍を駆逐して王太子シャルルをランスへと連れて行き、フランス王位に就かしめよ」という神の声を聞き、当時劣勢だったフランスを救うべく、戦争へ参加することを決意したのです。 とはいえ、神の声を聞いたからといって、一人の少女がすぐに戦争に参加できるはずはありません。 実際、貴族たちに話を持ちかけても真面目に聞いてもらえず、門前払いされていたそうです。 しかし、ジャンヌ・ダルクが戦況に関して様々な予言を的中させたことから徐々に信頼されるようになり、シャルル7世への謁見に成功。 結果、ジャンヌ・ダルクを「本物かもしれない」と判断したシャルル7世は、彼女の従軍を認めました。 ジャンヌ・ダルクが起こしたオルレアンの奇跡とは? 従軍が認められたジャンヌ・ダルクは、イギリス軍に包囲されて陥落寸前だったオルレアンへと向かいます。 従軍するまでの経緯を知った軍の間でジャンヌ・ダルクは話題の的となり、兵士の士気向上につながったようです。 進んで軍の先頭に立ち、軍旗を高く掲げて兵士を鼓舞するジャンヌ・ダルクの姿は、高い士気高揚効果をフランス軍にもたらしました。 さらに、ジャンヌ・ダルクは消極的な策ばかりだったフランス軍の作戦を一新し、積極的な攻撃策を進言。 この策に当初否定的だった古参の指揮官は、負傷しながらも先頭に立ち続ける彼女の姿に心を動かされ、英雄として認めるようになったといいます。 結果、ジャンヌ・ダルクの闘志に突き動かされたフランス軍は、劣勢だったオルレアンで見事に大勝利を収めました。 「オルレアンの奇跡」と言われるこの戦いで軍を勝利に導いたジャンヌ・ダルクは「オルレアンの乙女」と呼ばれ、国民的英雄として認識されるようになっていくのです。 ジャンヌ・ダルクの悲惨すぎる最期とは? ジャンヌ・ダルクは、オルレアン奪還後も「パテーの戦い」でイギリス軍に勝利を収めるなど活躍を続けました。 しかし「コンピエーニュの戦い」でブルゴーニュ軍に捕らえられ、イギリス軍に身柄を拘束されてしまいます。 何度か脱走を試みたものの、ことごとく失敗に終わり、ジャンヌ・ダルクは異端審問にかけられます。 この異端審問は非常に一方的なもので、当時の法律で認められていた弁護士をつける権利さえ与えられませんでした。 ジャンヌ・ダルクは持ち前の聡明さで厳しい尋問を切り抜け続けますが、最終的には彼女が文盲だったことを利用して「無罪判決の証書」を「魔女認定の証書」にすり替えてサインさせるという姑息な手段により、異端者として認定されてしまいます。 この異端審問により、ジャンヌ・ダルクは処刑法の中で最も過酷な火刑に処され、1431年5月30日に19年という短い生涯を閉じました。 後にこの審問は問題とされ、ジャンヌ・ダルクの死から25年経った後に再度審理が行われ、異端者の烙印は取り下げられます。 そして1920年には当時の教皇・ベネディクトゥス15世によって信仰の模範となる聖人の地位を認められ、その名誉を完全に取り戻すに至ったのです。 これに対しては様々な研究がなされており、その一つに「ジャンヌ・ダルクはてんかんや統合失調症だった」として、神の声は幻聴に過ぎなかったとする説があります。 しかし、当時残された記録や歴史家たちの研究からジャンヌ・ダルクは心身ともに健全であったとされており、判然としません。 現在もジャンヌ・ダルクが聞いたものは間違いなく神の声だったとする説も根強く、この神の声に対して明確な答えが出ることは当分なさそうです。 「オルレアンの少女」として歴史に名を刻み、死後500年以上経った今もなお映画や小説に取り上げられるジャンヌ・ダルク。 勇敢に戦った乙女は、これからも変わらず英雄として語り継がれていくことでしょう。 <こちらもおすすめ!>.

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ジャンヌ・ダルクが聞いた神の声とは?なぜ戦争に参加した? ジャンヌ・ダルクは、15世紀前半に活躍したフランスの軍人です。 フランスとイギリスの間で1337年に勃発した百年戦争で活躍した奇跡の少女として世界的に有名なジャンヌ・ダルクですが、軍人の娘として生まれたわけではなく、片田舎で農村の娘として暮らす普通の少女でした。 そんなジャンヌ・ダルクが百年戦争に参加するきっかけになったのは、12歳の時。 「イングランド軍を駆逐して王太子シャルルをランスへと連れて行き、フランス王位に就かしめよ」という神の声を聞き、当時劣勢だったフランスを救うべく、戦争へ参加することを決意したのです。 とはいえ、神の声を聞いたからといって、一人の少女がすぐに戦争に参加できるはずはありません。 実際、貴族たちに話を持ちかけても真面目に聞いてもらえず、門前払いされていたそうです。 しかし、ジャンヌ・ダルクが戦況に関して様々な予言を的中させたことから徐々に信頼されるようになり、シャルル7世への謁見に成功。 結果、ジャンヌ・ダルクを「本物かもしれない」と判断したシャルル7世は、彼女の従軍を認めました。 ジャンヌ・ダルクが起こしたオルレアンの奇跡とは? 従軍が認められたジャンヌ・ダルクは、イギリス軍に包囲されて陥落寸前だったオルレアンへと向かいます。 従軍するまでの経緯を知った軍の間でジャンヌ・ダルクは話題の的となり、兵士の士気向上につながったようです。 進んで軍の先頭に立ち、軍旗を高く掲げて兵士を鼓舞するジャンヌ・ダルクの姿は、高い士気高揚効果をフランス軍にもたらしました。 さらに、ジャンヌ・ダルクは消極的な策ばかりだったフランス軍の作戦を一新し、積極的な攻撃策を進言。 この策に当初否定的だった古参の指揮官は、負傷しながらも先頭に立ち続ける彼女の姿に心を動かされ、英雄として認めるようになったといいます。 結果、ジャンヌ・ダルクの闘志に突き動かされたフランス軍は、劣勢だったオルレアンで見事に大勝利を収めました。 「オルレアンの奇跡」と言われるこの戦いで軍を勝利に導いたジャンヌ・ダルクは「オルレアンの乙女」と呼ばれ、国民的英雄として認識されるようになっていくのです。 ジャンヌ・ダルクの悲惨すぎる最期とは? ジャンヌ・ダルクは、オルレアン奪還後も「パテーの戦い」でイギリス軍に勝利を収めるなど活躍を続けました。 しかし「コンピエーニュの戦い」でブルゴーニュ軍に捕らえられ、イギリス軍に身柄を拘束されてしまいます。 何度か脱走を試みたものの、ことごとく失敗に終わり、ジャンヌ・ダルクは異端審問にかけられます。 この異端審問は非常に一方的なもので、当時の法律で認められていた弁護士をつける権利さえ与えられませんでした。 ジャンヌ・ダルクは持ち前の聡明さで厳しい尋問を切り抜け続けますが、最終的には彼女が文盲だったことを利用して「無罪判決の証書」を「魔女認定の証書」にすり替えてサインさせるという姑息な手段により、異端者として認定されてしまいます。 この異端審問により、ジャンヌ・ダルクは処刑法の中で最も過酷な火刑に処され、1431年5月30日に19年という短い生涯を閉じました。 後にこの審問は問題とされ、ジャンヌ・ダルクの死から25年経った後に再度審理が行われ、異端者の烙印は取り下げられます。 そして1920年には当時の教皇・ベネディクトゥス15世によって信仰の模範となる聖人の地位を認められ、その名誉を完全に取り戻すに至ったのです。 これに対しては様々な研究がなされており、その一つに「ジャンヌ・ダルクはてんかんや統合失調症だった」として、神の声は幻聴に過ぎなかったとする説があります。 しかし、当時残された記録や歴史家たちの研究からジャンヌ・ダルクは心身ともに健全であったとされており、判然としません。 現在もジャンヌ・ダルクが聞いたものは間違いなく神の声だったとする説も根強く、この神の声に対して明確な答えが出ることは当分なさそうです。 「オルレアンの少女」として歴史に名を刻み、死後500年以上経った今もなお映画や小説に取り上げられるジャンヌ・ダルク。 勇敢に戦った乙女は、これからも変わらず英雄として語り継がれていくことでしょう。 <こちらもおすすめ!>.

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18歳当時、フランスとイングランドはの真っ最中でしたが、この百年戦争に参戦し、「オルレアン包囲戦」という戦いでフランス軍を率いてイングランド軍に勝利したことで有名。 しかし、その翌年に捕らえられ、イングランドやイングランドに協力するフランスの一派によって異端者とされて火あぶりの刑に処せられました。 その後500年以上経った1920年5月16日、ジャンヌ・ダルクはローマカトリック教会によって「 聖人」と認められ、現在では フランスの国民的英雄として世界的にも知られています。 ジャンヌダルクの生涯を百年戦争の歴史の中で見つめていこう ジャンヌダルクが生まれた時代のフランスは、「百年戦争」と呼ばれるイングランドとの長期にわたる戦争の渦中にありました。 百年戦争は簡単に言ってしまえば、 「 領地」と「 フランスの王位継承」を争って起こった戦争です。 そして15世紀前半までに、ジャンヌダルクが活躍することになったオルレアンを含む当時のフランス領地北部は、略奪行為を行う軍(略奪傭兵団)によって無法地帯と化した前線でした。 ジャンヌダルクの幼少時代 ジャンヌダルクは1412年頃の1月6日に、フランスのドンレミ村で生まれました。 ジャンヌは、この母から主に信仰や家事を教えられ、 家から遠くに出掛けたりすることもなく、家畜の世話をし、裁縫が得意な少女でした。 ジャンヌの少女時代はイングランドがフランスをほぼ掌中に収めかけていた時期だった 一方、ジャンヌが少女だった時代、 フランスはイングランドの実質的な支配下に陥ろうとしていた状況だったのです。 (ヘンリー5世) 1415年、イングランド王ヘンリー5世がフランス北部に侵攻してフランス軍に大勝。 その後、イングランドはフランスの ブルゴーニュ派 (注)の支援を得ます。 そして1420年、トロワ条約によってヘンリー5世は、精神疾患のあるフランス王シャルル6世の摂政になることを認められ、 シャルル6世が死去した後にフランス王位を継承することが取り決められました。 ところが1422年、ヘンリー5世とシャルル6世は数か月の内に相次いで死去してしまったため、 ヘンリー5世の幼い息子がフランスとイングランド両国の王になりました。 一方、シャルル6世の息子 (後の シャルル7世)の支持者は、この出来事をフランス王室に王位を取り戻すチャンスだと考えました。 (注釈)ブルゴーニュ派とは、フランスの王政下で1390年代~1430年代半ばに、アルマニャック派と対立抗争した党派。 両者の抗争はフランスを二分し、ブルゴーニュ派はイングランドとの同盟を組むまでに至った。 幻視が起こりフランスの救世主になれとの「神の声」を聞いたジャンヌ この頃ジャンヌ・ダルクは幻視を見るようになります。 その幻視は当初、敬虔な生き方をするように導くものでした。 しかし、時が経つにつれて幻視はより鮮明になり、と聖カトリーヌが現われ、 ジャンヌダルクに フランスの救世主となるように告げました。 この「神の声」を始めて聞いたのは、後のジャンヌの証言によると1424年頃、ジャンヌがまだ12歳ぐらいの頃だったとされています。 また、その神の声の中には、 シャルル7世 (王太子【=王位継承者】の称号を持つとされた人物) に謁見し、イングランド軍を撃退する許可をもらい、シャルル7世を正式なフランス王にせよ というお告げも含まれていたのです。 ジャンヌ・ダルクが王太子に謁見する 1428年5月、ジャンヌダルクは幻視を見て、ヴォークルールに行って王太子の支持者である守備隊長のロベール・ド・ボードリクールに会うように指示されました。 最初、ボードリクールはジャンヌダルクの願いに取り合いませんでしたが、彼女が村人から支持されていることを知ると、1429年にその願いを聞き入れ、ジャンヌダルクに馬を与えて数人の護衛をつけてやることを決定。 ジャンヌダルクは髪を短く切り、男性の服を着て11日間の旅をし、敵地を突破して王太子の王宮があるシノンにたどり着きました。 ( シャルル7世:出典: ) 王太子に謁見を求め「 自分はフランスを救うことができる」と明言するこの小作農の少女のことを、当初、王太子はどう受け止めたら良いか分かりませんでした。 けれども 身分を隠した服装で王宮の人混みに紛れて隠れていた王太子を、ジャンヌダルクが正しく見分けたため、王太子は彼女の話を聞くことにします (他にも、ジャンヌダルクは王太子がフランスを救うために行った、王太子しか知らない祈りの詳細を言い当てたという言い伝えもある)。 それでも王太子はジャンヌダルクのことを完全に信用することができず、有名な神学者たちにジャンヌダルクを審問させました。 その結果、ジャンヌダルクに不当なところはなく、彼女は 純粋に敬虔で純潔で謙虚な人物であるという結論が報告なされたのです。 オルレアン包囲戦に参戦 王太子はようやく17才のジャンヌダルクに鎧と馬を与え、 包囲戦の戦場であるオルレアンの軍隊に加わることを許可しました。 オルレアン包囲戦は1428年10月12日に開始され、イングランド軍がオルレアンを包囲する形で半年以上もイングランド側が優勢でした。 そんな中、ジャンヌ・ダルクが翌年の4月29日にオルレアンに到着して指揮に加わります。 (出典:) 戦いの中でジャンヌダルクは負傷しましたが、後に前線に戻って最終攻撃を鼓舞激励し続け、 ジャンヌがオルレアンに到着してから9日間でイングランドによる包囲は崩壊。 ここに オルレアン包囲戦は決着を見ます。 また、この流れに乗って同年6月中旬までにフランス軍はイングランド軍に大勝し、イングランドが無敵だという認識を覆したのです。 一方で王太子は、神から啓示を受けたと言われるジャンヌダルクの使命を認めていたように見えましたが、 彼女の意見や助言を完全に信用していたわけではありませんでした。 そのため、オルレアンで勝利した後、ジャンヌダルクは王太子に対して「直ちにランスへ行って王位に就くように助言」し続けましたが、王太子やその側近たちは警戒。 1429年7月18日、ようやく王太子はランスへ行って即位してシャルル7世となります。 この戴冠式でジャンヌダルクは、シャルル7世の隣の目立つ位置に列席していました。 ブルゴーニュ派に捕まりイングランド側へ引き渡されてしまう 1430年春、シャルル7世はジャンヌダルクにコンピエーニュ包囲戦に加わって、ブルゴーニュ派 (イングランド軍と連合軍を形成していたブルゴーニュ公国軍)と戦うよう命じます。 しかし、戦いの途中でジャンヌダルクは落馬し、城門の外に取り残されてしまいました。 その結果、 ジャンヌダルクはブルゴーニュ派に捕虜として捕まってしまいます。 そして、数ヶ月間の拘束の後、ブルゴーニュ派とジャンヌを宣伝価値の高い捕虜だと考えていたイングランド側の交渉によって、 ジャンヌダルクは身代金と引き換えにイングランド側へ引き渡されてしまうことになりました。 一方、この状況に対してどう対処したらよいか分からなくなったシャルル7世は、ジャンヌダルクが受けたという神の啓示をまだ完全に信用することが出来なかったこともあり、 この事件から距離を置いて、彼女の解放のために働きかけることはなかったのです。 ジャンヌ・ダルク処刑裁判 ジャンヌダルクが戦った相手はイングランド占領軍だったにも関わらず、彼女の身柄が引き渡された先は教会の司教でした。 当初、裁判は公開されて行われましたが、ジャンヌダルクが尋問に対して明晰な答えを続けたことで、その後の裁判は非公開となります。 また、1431年2月21日から3月24日の間に、ジャンヌダルクは裁判所で10数回もの尋問を受けましたが、彼女は常に謙虚な態度で無罪を主張し続けます。 この時、ジャンヌダルクが捕えられていたのは、 修道女が看守役を務める教会の監獄ではなく、 軍の監獄でした。 しかしこのことが、 ジャンヌに対する死刑判決のきっかけを尋問者達に与えてしまうことになったのです。 再び男装をした= 異端の罪を犯した と結論づけられてしまったからです。 特に、当時の審問者達はジャンヌダルクを有罪にすることが出来ずに苛立っており、獄中で身を守るためにジャンダルクが軍服を着たことを逆手にとって利用したのです。 そして同年5月30日の朝、ジャンヌダルクはルーアンの広場に連れて行かれ、1万人いたとされる民衆の前で 火あぶりの刑に処せられました。 この時ジャンヌダルクは19才でした。 その後、ジャンヌダルクの遺灰はセーヌ川に散布されました。 ジャンヌダルクの復権裁判と後世の評価 ジャンヌダルクの死後も、百年戦争はさらに22年間続き、その状況下でもシャルル7世は王位を維持し続けます。 1453年に百年戦争が終焉してから3年後、シャルル7世はジャンヌダルクの裁判に関する調査を指示。 その結果、 ジャンヌダルクの無罪が判明し、1456年には正式に彼女の無罪を宣言してジャンヌダルクを殉教者とします。 そして時は経ち1920年5月16日、 カトリック教会によってジャンヌダルクは 聖人として認められ、 フランスの守護聖人となったのです。 ジャンヌ・ダルクに関して他にも知っておきたい6つの逸話 素人のジャンヌが指揮出来たのは神の声のおかげ? ジャンヌダルクは、裁判の審理中になぜ軍人としての経験がない自分が軍隊を指揮できたのかを証言しています。 ジャンヌの説明によるとそれは、「 神の声」だったそう。 いつも光と共に神が現れ、直々に作戦を伝授されたという内容で、他にも大天使ミカエル、聖カタリナ、聖マーガレットなどが、どのような戦術がふさわしいかを助言してくれたと言うのがジャンヌの主張です。 ブルゴーニュ派はジャンヌを1万リーブルでイギリスに引き渡した ブルゴーニュ派が捕虜としたジャンヌダルクをイギリス側へ引き渡した時、その対価は 1万リーブルでした。 当時の兵隊長の月給が60リーブルとされるので (参照:)、1万リーブルは相当な価値だったことが分かります。 仮に、 60リーブルを100万円と考えた場合、およそ1億7千万円近くになるでしょうか。 このお金と引き換えに、ジャンヌダルクはルーアンの英国王ヘンリー6世の軍事拠点に移送され、英国支持に回っていた枢機卿ピエール・コーションの面前で、教会による異端審問の裁判にかけられることとなったのです。 裁判のおかげで当時としては珍しく詳細な生涯に関する記録が残った 15世紀当時、記録に残されたり、伝記を書き綴られることは大変名誉なことで、その対象となったのは、王や貴族、聖人などの一握りの人々。 一般市民の記録などは、その存在さえも判然とした記録は残されていませんでした。 一方で、 ジャンヌダルクに関しては非常に詳細は生涯の記録や資料が残っており、これは 裁判のおかげと言えます。 公判の間は3名の公証人が毎回同席し、公判が行われた日はお互いに意見交換を行いました。 そして公証人グループは、ジャンヌダルク自身の証言や、召喚された115人に及ぶ証人の証言を書き記していきました。 裁判の焦点の一つにはジャンヌダルクの「処女性」の確認が含まれていた 中世という時代は、女性にとって残酷な時代だったと言えるでしょう。 というのも、 教会は女性の最もプライベートな領域にまで踏み込むことが許されていた時代だったからです。 ジャンヌダルクの「 処女性」についても、例外ではありませんでした。 この確認は、裁判の幕開け、1431年1月13日以前のどこかの時点で、 ベッドフォード侯爵夫人によって執り行われました (ジョンベッドフォード公爵の夫人の夫は幼年だった英国王ヘンリー6世のフランスの摂政)。 侯爵夫人がジャンヌの処女性を確認したことを宣言し、裁判は続行することとなったのです。 ジャンヌダルクは不適切な着衣のためにミサへの参加を禁止された 裁判中も、ジャンヌダルクは尋問の前にミサへの参加の希望を教会に申し入れていました。 しかし、この希望は「 不適切な服装」によって却下されています。 彼女の年頃の娘、しかも裁判の被告である者が、軍服姿で神の面前に参じるのはふさわしくないというのがその理由でした。 ただこの服装は、刑務所内で男性に暴行されないように身を守る為のものだったのは先述した通りです。 このエピソードからも、ジャンヌが勇敢なだけでなく実直であったことが良くわかります。 その後、ジャンヌダルクの功績を讃えて、この塔は「 ジャンヌダルク塔」として呼ばれるようになります。 ちなみ、ルーアン城は1590年に壊されてしまいますが、19世紀には再建されてジャンヌダルク塔も同じように復元され、現在は観光スポットとしても有名になっています。 合わせて読みたい世界雑学記事• ジャンヌダルクは若くして命を落としましたが、その偉大な功績はこれからも語り継がれるでしょう。

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